知恵の言葉 知識の言葉
赤波江謙一神父のよもやまメール箱
「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」(使徒言行録2・1〜4)。
5月27日の日曜日は聖霊降臨の祭日で、この日にミサで読まれた第一朗読が、上記の箇所でした。ここで記されている聖霊は、「炎のような舌」が一人一人の上にとどまったときに、その人たちに降臨したとあります。聖霊のことを、「燃える愛の火」というように、熱い霊と理解するのは、この箇所に由来しているのではないかと思いますが、聖霊は「炎のような舌」の形を取ったのであって、「舌のような炎」とは書かれていません。つまり聖霊は「舌」の形を取って使徒たちの上に降ったのです。「炎」の形を取ったのではありません。「全教会の交わりの中でわたしたちは、使徒に炎の形で現れた聖霊降臨の神聖な日を祝い………」(ミサ典礼書「第一奉献文」)と祈りますが、「舌のかたち」とするほうが聖書の記事の通りだと思います。
ラテン語で「舌」のことをlingua(リングァ)といい、この言葉には同時に「言語」という意味もあります。だから、というわけではないのですが、使徒たちが聖霊を受けた直後の働きは、「“霊が”語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」とあるように、言語という賜物による宣教でした。
「賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。務めにはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ主です。働きにはいろいろありますが、すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です。一人一人に“霊”の働きが現れるのは、全体の益となるためです。ある人には“霊” によって知恵の言葉、ある人には同じ“霊”によって知識の言葉が与えられ、ある人にはその同じ“霊”によって信仰、ある人にはこの唯一の“霊”によって病気をいやす力、ある人には奇跡を行う力、ある人には預言する力、ある人には霊を見分ける力、ある人には種々の異言を語る力、ある人には異言を解釈する力が与えられています。これらすべてのことは、同じ唯一の“霊”の働きであって、“霊”は望むままに、それを一人一人に分け与えてくださるのです」(コリントの信徒への手紙II 12・4〜11)と聖パウロは言っています。順序の問題ではないかもしれませんが、聖パウロも聖霊の賜物のことを、まず「知恵の言葉」次に「知識の言葉」と挙げています。
こう考えてくると、聖霊の賜物は、何よりもまず、神のことばを正しく伝える賜物、人間の言葉をつかさどる賜物ということになります。この賜物のことをイエス様は、「弁護者」「真理の霊」ということばで説明しておられます。
「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」(ヨハネ14・25〜26)。
「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのだから、証しをするのである」(ヨハネ15・26〜27)。
聖霊の照らしによって書かれた聖書を通して語られる神のことばを、わたしたちが人間的な知恵とか経験を基に理解しようとしても、不可能です。イエス様のことばを、言語として理解したとしても、神としてのイエス様のことばを真に理解できたことにはなりません。真理であるイエス・キリスト、神のことばであるイエス・キリストを分かるためには、イエス様ご自身が約束なさった「真理の霊」である聖霊によるほかはないのです。
言語というのは、人間社会において、人間同士の意思の疎通をはかるために非常に重要なものです。でも、時として私たちは、伝えようと思うことを伝えられずに、伝えようと思ってもみなかったことが伝わって、相手を傷つけてしまうこともあります。聖パウロが言うとおりです。
「わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている」(ローマの信徒への手紙5・18〜19)。
言葉の使い方についても同じことが言えるのではないでしょうか。「言葉で過ちを犯さないなら、それは自分の全身を制御できる完全な人です。……舌は小さな器官ですが、大言壮語するのです」(ヤコブの手紙3・2、5)と聖書にあるとおりです。神のことばを理解させていただくために、そして自分の言葉をコントロールしていただくために、私たちはいつも聖霊の賜物を願わなければならない。今年の聖霊降臨の主日に、特に感じたことでした。
話は変わりますが、先日、高校時代の同級生から電話があって、今東京に来ているので、ぜひ会いたいと言ってきました。突然だったので、最初は同姓の別の同級生のことを思いながら受け答えをしていたのですが、話しているうちに、聖パウロ修道会赤坂修道院に1960年から3年間、志願者として在籍していたU氏と分かり、とても懐かしくなって近くの喫茶店で会うことにしました。私たちが高校を卒業したのが1963年で、私が福岡にいた1977年ごろに、道端でばったり会って言葉を交わしたのが卒業以来14年振り、それから30年振りの再会でした。30年前に会ったときに、宇宙の精神について勉強している、と言っていたようなことを記憶していました。ほかの同級生については、たまに風の頼りみたいなものがあって、どこで何をしているか少しは把握していましたが、U氏のことについては、全く音信不通だったので、《あいつ、いったい何してるんだろう?》と時々思い出したりしていました。それで電話口で、 “今、何してんの?”と尋ねると、“実は、スピリチュアルな仕事をしるんだ”と言うのです。非常に真面目なやつでしたが、一風変わっている人間だったので、スピリチュアル(霊的)な仕事といっても、私は心の中で《けったいなことやってるんじゃないだろうなあ》と少し心配していました。
「スピリチュアルな」彼の仕事というのは、霊的なという意味の宗教者としてのそれではなく、悩みを抱えている現代人の心の病を癒すのを目的とした仕事でした。彼はそれを心理療法的なカウンセリングではなく、「癒しの家」を主宰しながら、人の心の中にあって自分では気づいていない問題に気づかせる手伝いをする、というようなことでした。
もちろん彼はカトリック信者ですから、聖書を用いたりするそうですが、宗教家としての活動は全くしていないということで、決して新興宗教的な「けったいなしごと」ではないらしかったので、安心して話を聞いたり、私自身のことを話したりして、一杯のコーヒーで、3時間くらい話に花を咲かせました。彼の世界のスピリチュアルな話と、私の話す聖霊の話に、お互い共感するものを感じた3時間、久し振りに楽しく、嬉しく、有意義な時を過ごすことができました
超自然の世界を信じない普通の日本人には、スピリチュアルな話は全く通じないということで、一緒に来ておられた美しい奥様によると、「アシュラム」と名づけられた彼の癒しの家を訪れる人以外の人と、彼がこんな話をしたのは初めてだそうです。聖霊が私たちの中にいてくださって、私たちの言葉を導いてくださったのだと感謝しています。
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