よもやまメール箱

夏本番 水の話

赤波江謙一神父のよもやまメール箱


 私の知り合いのシスターに、聖書に出てくる「サマリア」という地名をご自分の修道名にしている方がいらっしゃいます。珍しい修道名だな、と思いながらも、そのわけをお聞きすることもなかったのですが、それは、聖書に何度か出てくる「サマリア」という地名が私にそれほど強い印象を与えるものではなかったということだったのかもしれません。ところが最近、ある祈りの集いで、ヨハネ福音書の4章に述べられているイエス様とサマリアの女との会話の中の、「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」(14節)という箇所を引用したときに、このサマリアの女の果たした役割と使命が、私の心に強く印象付けられ、同時に、サマリアというあのシスターの修道名は、地名ではなくてこの女のことだったのかと、あらためて思い出したのでした。

 上記の「ある祈りの集い」では、聖霊の役割について話そうと考えていました。それでまず、聖パウロの言葉の一節「一人一人に“霊”の働きが現れるのは、全体の益となるためです」(1コリント12・7)を最初に引用し、さらに「『渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。』イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている “霊”について言われたのである」(ヨハネ7・38−39)を引用して、イエス様のみことばを信じて聖霊の賜物を受けた人は、その賜物を自分の中から生きた水の大河として放出し、周りを豊かに潤すようになる、と説明し、それが「全体の益」となることだと話しました。

 「サマリアの女」は、まさにその聖霊の賜物を受け、その豊かな賜物を大河のように放出して、自分の周りを潤した人でした。女は、「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください」(15)と言いますが、この祈りによって彼女は聖霊を受けたのです。それによって彼女は「夫はいません」と言って過去の生活と決別する回心をし、それと知らずに自分の目の前にいるメシアと言葉を交わすことになります。さらに女は自分の用事であった水をくむ仕事をそこに置いたまま町に行き、「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません」と人々に告げ知らせます。

 この「サマリアの女」がどれくらい人に知られた人物だったか分かりません。でも確かなことは、この女の呼びかけに多くの人がこたえ、町を出てイエスのもとへやって来たということです。

 「さて、その町の多くのサマリア人は、「この方が、わたしの行ったことをすべて言い当てました」と証言した女の言葉によって、イエスを信じた。そこでこのサマリア人たちはイエスのもとにやって来て、自分たちのところにとどまるようにと頼んだ。イエスは二日間そこに滞在された。そして、更に多くの人々が、イエスの言葉を聞いて信じた」(39−41)。

 ユダヤ人と歴史的に長い敵対関係にあったサマリア人が、ユダヤ人であるイエス様に、自分たちのところにとどまってくださいと頼むこと自体、聖霊の働きによる奇跡であり、そのきっかけをつくった一人の女の存在を通して聖霊は働かれたのです。しかし、このことにおける彼女の人間的な功績は、人々の彼女に対する言葉ですべて打ち消されてしまいます。

 「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです」(42)。

 人間的に考えるなら、「そのきっかけをつくったのは私です」と主張したいところでしょう。でも聖霊の本当の働きは、働きの場を提供したその人の人間的な価値を人間の前に証明するのではなく、豊かに潤された人の中に喜びを実らせるということにあります。これが「一人一人に“霊”の働きが現れるのは、全体の益となるためです」というパウロの言葉の意味です。

 この話をしながら、ふとシスター・サマリアのことを思い出し、「私の知っているシスターの一人に、サマリアという名前を修道名にしている人がいるんですけど、彼女はこのサマリア人の女のこと本当に分かっているのかな?」と失礼なことを言ってしまいました。後日、彼女の修道院を訪問することがあって、姉妹たちと歓談する中でこの話をしたら、ご本人はニコニコしながらうなずいていました。でもほかの姉妹たちは、《なんで彼女はこんな地名を修道名にするんだろう、と思ったけど、よく分かった》ということでした。

 今年は、今のところ全国的に水不足が伝えられていますが、猛暑が予想されている夏までには、豊かな水に恵まれますようにと希望しています。霊的な命の水は、それ以上に、私の中に泉となって溢れ、大河となって流れ出て周りを潤すように、サマリアの女の心で、「主よ、渇くことがないように、またここにくみに来なくてもいいように、その水をください」と祈らなければならないと思っています。