不在投票
赤波江謙一神父のよもやまメール箱
7月のはじめに、あるプロテスタント教会での集まりで短い話をする機会がありました。その集まりというのは、「アルファ・コース」という信仰教育プログラムのトレーニング・コースでした。主催者からの依頼で、そのオープニングにカトリックの立場からアルファ・コースの紹介をしてほしいというので、30人くらいいたプロテスタントの牧師や信徒に、カトリックでも幾つかの教会でアルファ・コースが行われていること、このコースが、キリストとの人格的出会いを実現するために、求道者だけでなくて、信徒の再教育、生涯教育にも大きな効果があるという話をしました。
その中で、カトリックの悪口になるかな、とは思いましたが、自分がキリスト教徒として、さらにカトリック信者として自分のたちの教会を見つめるなかで、ときどき、「キリスト不在」の部分を実感することがある、と言いましたら、プロテスタントの聴衆にも共感を与えたような反応があって、変に安心したような気になりました。
短い時間でしたし、その「キリスト不在」の内容を具体的に紹介することは控えましたが、自分も含めて多くのカトリック信者に、「キリスト教」に所属している認識は十分にあるし、その教義に忠実でありたいと思うし、教義に基づいた典礼に生きる「信仰生活」を大切にする気持に異存はないのですが、肝心のキリストのことは「前提」になっていて、現実には教会のさまざまな部分が「キリスト不在」と言ってもいいような様相を呈しているのは、実に普通のことなのです。
文学、音楽、絵画、演劇、映画などに、キリストのことを題材にしたものはたくさんあります。でもそれらは、キリストを利用し、キリストを「食い物」にし、キリストを使っての売名行為であって、その中にキリストは実在しないのです。これらは教会の中の話ではないので何も問題はありませんが、実は教会の中にも、キリストとの人格的出会いを推進する宣教活動の中に多くの売名行為があることも否めない事実です。教会の中の、信仰共同体をも含めた多くの組織の中に、その共同体の活動、運営、維持・管理に汲々としていて、「キリストとの出会い」よりも、「世俗との出会い」に迎合し、それを優先させるために奔走しているという一面があるのではないでしょうか。組織だけではなく、個人的な次元でも、宣教という名を借りて、気がつかないうちにキリストを自分の証しのため、自己満足のために利用するというのはそんなに特別なことではありません。
そんなことを考えているときに、カプチン・フランシスコ会のラニエロ・カンタラメッサ神父様が、やはり「アルファ・コース」の国際カンファレンスでなさった講話の一節に触れる機会がありました。彼はその講話の中で、キリスト教というのは、まず教義ではなく、何をさておいてもまず、キリストご自身と人格的に出会うこと、そしてそのキリストを伝えていくことであり、キリストを見いだす前に、まず教義、倫理、典礼といったものを持ってくるのは、鉄道の機関車の前に、本来引っ張られるはずの客車を置くようなものだ、と言っておられます。こんな「キリスト不在」の姿が、カトリック教会の中にないと言えるでしょうか。
「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」(ルカ10・42)。
ベタニアの村の、ラザロ、マルタ、マリアたちの家における、イエス様とマルタの間に交わされた会話の一節です。イエス様が自分たちの家に来られ、どうやっておもてなしをしようかと働いている自分のことを無視して、「主の足もとに座って、その話に聞き入っていた」マリアのことが、マルタには気に入りません。「わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください」と、不平を言ってしまいます。そのマルタにイエス様は、「必要なことはただ一つ」とおっしゃるのです。
最初はマルタも、純粋に「イエス様をどうやっておもてなししようか」ということから始めたのでしょう。ところが、家の中をきれいに片付け、飲み物と、食べていただく料理の献立を考え、足を洗うための水を準備し、イエス様が到着されて台所で働きだしても、マリアは一向に手伝う様子がありません。まず自分と同じように働かないマリアのことが気になり、自分だけ働かなければならないことが、損でもあるかのように感じたのかもしれません。
そうなってくると、最初は自分たちの家族にとって大切な愛するイエス様をおもてなししたい、というマルタの意識は、おもてなしするはずのイエス様から離れて、自分を手伝わないマリアと、働かなければならない自分のほうに、完全に集中してしまったのでしょう。自分とマリアとのバトルの結果、もうイエス様はどうでもいい存在になったのではないでしょうか。
このマルタの姿はそのまま、宣教活動、修道生活に従事していると自負している者の姿であり、そのマルタへの、「必要なことはただ一つ」というイエス様のみことばは、そのまま私たちへの警告でもあるのです。純粋な気持ちで始めたキリストの証しを目指すはずの宣教生活、修道生活だったものが、他人の行動への干渉、自分の活動の結果などに没頭しているうちに、いつのまにかキリストは不在になり、自分のことしか眼中にない日々を過ごしていることに気がつかなくなっていることさえあるのではないでしょうか。「必要なことは、ただ一つ」、キリストと出会うこと、キリストを証しすることです。
参議院議員選挙が近づいてきました。今年は大丈夫ですが、一度、選挙当日に用事があって数日前に「不在投票」(今は期日前投票)をしたことがあります。この投票はもちろん有効です。しかし、キリスト不在なのに、「私(たち)はキリスト教徒です」という「キリスト不在投票」は、人の前には有効と見えても、神の前には無効です。
キリスト不在信者にならないために、もっともっと福音書のみことばに近づき、キリストの温もり、キリストの息遣いに触れるようにしなければなりません。「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです」(1コリント12・3)と聖パウロは言います。キリストに人格的に出会うことができるための聖霊の賜物をいただきたい、そう祈っている毎日です。
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