時が来れば………
赤波江謙一神父のよもやまメール箱 シーズン2
「よもやまメール箱」を再開してくれと担当者から言われて生返事で引き受けていましたが、あれから半年あまり過ぎたのではないかと思います。バックナンバーをひっくり返してみたら、最後のメールは2007年の12月でした。2004年から始めていますので、4年間連載したことになりますが、よくも書くことがあったものだなと一人で感心しています。というのは、担当者と顔を合わせるたびにせっつかれるので、いよいよ書かねばな、とパソコンに向かったのですが、何を書いたらいいのか、題材を思いつかないのです。2007年の暮れまでは、毎月締め切りの日が近づくと、頭がそのモードに切り替わり、あ、あれ書こ、という題材を思いついたものですが、2年間のブランクというものは、まるでその2年間何もなかったかのように、書く題材を全く思いつかないのです。それで、2年前を思い出し、どうして書かなくなったのか、というところから書き始めてみようと思いました。
原因は2007年の暮れに修道会の管区長が交代し、その結果行われた人事異動にあります。何か自分にもその煽りがあるかなあと思っていましたが、ある日の朝食の後、ちょっと、と呼び出され、宣教企画編集部・図書グループの主事をするように、と言われました。同グループの責任者としての主事の仕事の内容はよく把握していなかったのですが、少しずつ学びながら、という思いで素直に引き受けました。
ところがそれから一週間くらいたった日の朝食後、また呼び出され、今度は、修道院の院長もやってくれと言われたのです。二つも無理です、どちらか一つにしてください、と言ったのですが、聞き入れてもらえず、どうにかなるだろうと両方引き受けてしまいました。
午前中、9時から12時まで編集部に勤め、昼食後は修道院で、という二足の草鞋(わらじ)の生活が始まりました。最初の数か月は無我夢中でやっていたのですが、そのころ修道院に病人が一人いてその介護の仕事もありましたので、編集部にいても修道院のことが気になり、修道院にいるときも編集部の仕事を持ってきて片付けるなど、どちらにも集中できない状態になっていきました。
そういうわけで、「よもやまメール」どころではなくなったのです。そして2008年の暮れになるころには、自分にこんな仕事を押し付けた上の者に対する不平と不満が心の中にモクモクとくすぶり始めていました。そしていつかこの状況を管区長にぶつけねば、と思っていたのですが、2009年の年が明けてすぐに、その時がやってきました。
それは管区長の会員たちとの個人面談でした。良い機会だと思ったので、自分を取り巻くそのときの状況について話しました。時々質問をしながら、じっと話を聞いていた管区長が、最後に、「そんなことは私一人が聞くよりも、顧問たちにも伝わるように文書にしてください」と言われたのは意外でしたし、さらに私が「じゃあ、編集部の仕事に関する辞表を提出してもいいんですか」という質問に、「受理されるかどうか分からないけれどね」と笑いながら言われましたが、その日の午後、これまで一度も書いたことのない辞表なるものを作成し、その日のうちに管区長に手渡しました。そこでも管区長は、「どうなるか分かりませんよ」と笑っていました。1月8日のことでした。月に二度行われる管区顧問会議で辞表の一件が扱われたのは1月29日で、その翌日、管区長から「受理します」との返事をもらいました。
二年間という任期の半ばで職を辞し、編集部には迷惑をかけましたが、最初にこの職を引き受けたことが失敗だったとは思いません。「主がどうにかしてくださる」と信頼して管区長の命令を受けたことによって、「時が来れば実現する」(ルカ1・20参照)神の計画があの一年間の中で何か実現したのだと確信しているからです。
「よもやまメール箱」どころではなかったころに比べると、今は少し余裕がありますが、毎月の締め切りまでに「よもやま話」の題材が見つかるか自信はありません。でも担当者の命令にせっぱ詰まれば、火事場のバカ力が出るんだろうなあと、思い切って再開することにしました。
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