福音樂 - よもやまメール箱

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赤波江謙一神父のよもやまメール箱 シーズン2

 大字典(講談社)によれば 「樂」という字の本来の意味は楽器だそうです。中間の白は鼓(つづみ)を意味し、両側の糸に似た字はそれを打つことを意味し、木はその台を示します。これから樂は五声八音(五声は音階、八音は八つの楽器)の総称となり、これを聞くのはタノシイということから樂の字がたのしいことに当てられるようになったといいます。日本ではたのしい意味から転じてラクといい、心身の安らぎ、簡単容易という意味でも用いられています。

 最近、この「楽」という漢字がとても気になっています。日本語では、知識を身につけることを「学ぶ」といいます。数学、科学、化学、物理学、言語学という言葉を使いますが、音については音学とは言わず、音楽を学ぶと言います。音を楽しむということで、漢字ならではの美しい表現です。

 気になる、というのは、このタノシイという意味においての「楽」ではなく、もうひとつのラクになるという意味での「楽」です。最近、忙しくて心にあまり余裕がないので、忙しさから解放されて楽になりたいということへの願望の表れなのでしょうか。でも、そもそも忙しいか、忙しくないかは別として、「はたらく」とは、「はた」(側、傍、周り)を「らく」にするということなのですから、はたらくことから解放されたいと願うのは、みんなを楽にすることから逃げたいと願うことなのでしょうか。そんなことがあってはならないと思うのですが、みんなを楽にさせてあげたい気持ちと、自分も楽になりたいという気持ちが同居するのは矛盾なのでしょうかね。みんなを楽にするために忙しくて心に余裕がなくなるというのは、はたらきかたがよくないのでしょうね。喜んではたをらくにする方法を考えなきゃね。

 実は、働き方を工夫して自分もらくになる方法を考えるよりも、はたをらくにしながら自分もらくになるもっと簡単な方法があるんです。

 「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る」(マタイ16・25)とイエス様は言われます。これを私の言葉に言い換えると、「自分が楽になろうと頑張る人は疲れるが、人を楽にしてあげようと頑張る人は楽にさせてもらえる」ということになります。だいたい、自分だけ楽になろうとしても、周りは決してそうはさせてくれません。仕事の上であれ、プライベートなことであれ、自分が願うほどに人は自分を楽にさせてくれるどころか、常にそれを邪魔ばかりしてくれます。

 こんな話を聞いたことがあります。

 年齢は40代の独身のSさんという女性の話です。彼女は一人で生活していたのですが、薬局を営んでいた実家の90歳の祖母が認知症になり、兄嫁との関係、つまり嫁、姑の関係がうまくいかなくなりました。Sさんは自分のことを昔とてもかわいがってくれた大好きな祖母が不憫になり、「おばあちゃん、私のところに来ない?」と言って祖母を自分の家に引き取りました。引き取った後も、祖母の認知症は進行していき、自分の家でデザイナーとしての仕事をしていたSさんは祖母の世話という仕事が増えて大変だったと思うのですが、彼女はそれを介護の仕事としてではなく、祖母との生活としてすべてを祖母に合わせていったそうです。例えば、祖母が「お金が無くなった」と言えば、「そんなことはない」と言う代わりに、「あら、ほんと? じゃ、いっしょに探そう」と言って探すふりをしながら、本の間にお札をそっと挟んで祖母に見せ、「こんなところにあった」と言って祖母を安心させる。あるときは「息子が帰ってくるから準備しなくちゃ」と言うのに対して、「そんなことはない」と言う代わりに、祖母と一緒に寝床の準備をし、「駅まで息子さんを迎えに行きましょ」と言って家の周りを一回りして帰ってくると、それで一件落着ということになる。あるときは譫妄(せんもう)状態になり、2日間ぐらい眠らない状態が続くときには、自分も一緒に起きている。自分は睡眠不足でフラフラになるけれども、祖母はそのあと3日間くらい眠り続けるので、自分は普段より少し多めに眠って、祖母が寝ている間に仕事をする、といったような毎日だったそうです。大好きなおばあちゃんだからできることだったと思うのですが、Sさんは認知症という祖母の状態で苦しんでいた祖母自身と周りの人を楽にさせるために、祖母を自分のうちに引き取って世話をしたということです。自分が楽になるということは一切考えなかったのでしょう。このことを楽しそうに話してくれた彼女の表情を今でも覚えています。

 「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛(くびき)を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」(マタイ11・28~30)ともイエス様は言われます。「わたしの軛を負えば安らぎを得られる」と。「軛」というのは人を楽にさせるために働くということでしょう。そうすれば恵みとして、結果的に楽にさせてもらえるということです。福音書は私たちが楽になる方法を教えてくれます。そういう意味でこれから私はイエス様の言葉を聞くことを、「福音樂」(ふくいんがく)と呼ぶことに決めました。