真理とは何か?
赤波江謙一神父のよもやまメール箱 シーズン2
一人のキリスト者として、またカトリックの司祭として、日本の文化の中に西洋のキリスト教文化が意味を理解しようとせず、形ばかりが取り入れられていることに、かねてから少し不満のようなものを感じていました。クリスマスもその一つです。12月に入るころから町はクリスマス一色に飾られていき、12月24日が近づくにつれて雰囲気は次第に盛り上がっていくのですが、25日の「主の降誕」の日を祝うことなく、その前夜祭の24日の夜が過ぎると、あっという間にクリスマスは終わり、正月の準備に町は一変してしまうというのはそのひとつです。教会の中はその後1週間、主の降誕の祝いを続ける雰囲気が残っていますが、巷にはもうクリスマスは残っていません。イエス・キリストの誕生を祝うクリスマスではないので仕方のないことですが、不満を感じるというのは、もう少し長い間、メリー・クリスマスと言い交わして、イエス様の誕生を祝ってもよいのではないかということです。
去年のクリスマスのときにもそのように感じていたのですが、どうういわけか去年は同時に、この日本人の変わり身の速さということにも何か意味があるんじゃないかと考えたときでもありました。そのように考えるきっかけとなったのは、毎年25日の日中のミサで朗読されるヨハネ福音の中にありました。「それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」(1・14)と、「律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して与えられたからである」(同17)の中の「真理」という言葉でした。
ご存知のように、ヨハネ福音書には、ほかの共観福音書(マタイ、マルコ、ルカ福音書)の中には見られない「真理」という言葉が数多く出てきます。ほとんどがイエス様ご自身のお話の中に出てくる言葉です。けれどもこの「真理」という言葉の説明はなにもありません。私たちが日常的に使っている「愛」とか「謙遜」という言葉にしても、福音的な解釈が必要なのに、日常的に使わない「真理」という言葉がいたるところに出てくるのに、だれもイエス様にその意味を問いただそうとしないのはなぜだろう、ということをそのとき考えたのです。
ところが、この「真理」について問いただした人が実は一人だけいたのです。イエス様が裁判にかけられて、総督のポンティオ・ピラトとのやりとりのなかで、「わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、私の声を聞く」と言ったときに、「真理とは何か」と問いただしたピラトその人です。
このピラトの問いかけに対してイエス様は、言葉ではお答えになっておられません。でも言葉ではなく、その行いによって「真理とはこれだ」とお答えになっているのではないでしょうか。ピラトが「真理とは何か」と聞いたその後の、イエス様のゴルゴタの丘への十字架の道行、十字架上における苦しみと死の中に「真理はここにある」という答えがあるのです。
「主の降誕」の日にこのようなことを考えていたとき、その十字架はイエス・キリスト生誕の地ベツレヘムの馬小屋の中に、最初の寝床まぐさ桶の中に既に現されているということに気づきました。ベツレヘムへの道のりはやがてゴルゴタへの十字架の道行に変わり、ベツレヘムの馬小屋はゴルゴタの丘に、布にくるまれて寝かされたまぐさ桶は布一枚の姿ではりつけにされた十字架へと変わっていきます。降誕の場面に既に十字架の場面が現されているのですから、降誕祭を祝った直後から、もう十字架についての思いを新たにしなければならないという意味で、いつまでもクリスマス、クリスマスと浮かれていないで、十字架に戻れと言われたような気がしたのです。「この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。――あなた自身も剣で心を刺し貫かれます――多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」(ルカ2・3435)というシメオンの」預言にもあるとおりです。
その意味で、24日のイブが終わったら25日からもう正月に思いを入れ替える日本人の変わり身の速さということにも何か意味があるように思ったのです。
こんなことを1月2日のミサの説教でシスターたちに話したのですが、ミサが終わった後で食事をしていると、一人のシスターが、「今日の説教の話って、このことでしょう」と、フィリピンで買ったという小さな十字架の焼き物を見せてくれたのです。思わず、えっ、と言ってしまいました。自分のオリジナルと思っていた十字架の話と同じ思いは既にほかの人の中にも示されていたのでした。あるいは私の記憶には残っていませんが、どこかで聞いていたのかもしれないその話が、無意識のうちに自分の中によみがえったのかもしれません。
いずれにしてもその焼き物の十字架を目にしたのは私にとって大きな感動でした。それでシスターからそれを拝借して写真に撮り、ここで皆様にも紹介させていただきました。
今日は2010年の聖週間の水曜日、あしたから聖なる3日間が始まります。真理についての説明はほかにもあると思いますが、十字架の中にこそ真理が凝縮されているように思えてなりません。
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