ペトロ岐部と187殉教者関連記事
雑誌「家庭の友」(2008年1月号〜9月号)に掲載された記事をご紹介します。
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ペトロ岐部と187殉教者 1
清流に育まれた信仰─八代の殉教者─
取材協力:レンゾ・レ・ルカ神父(イエズス会)
八代はキリシタン大名の小西行長ともゆかりが深く、彼のもとには数多くの信者たちが集まっていました。それがいつの頃から始まったかは定かではありません。熊本の領主加藤清正も最初は、キリシタンを黙認していましたが、韓国出兵の時に、八代との関係が非常に悪くなり、八代一帯の支配は半分に分断されてしまいます。1600年、関ヶ原に出陣した小西行長は敗戦の末、京都六条河原で斬首されます。主君を失った八代の町には翌年、小西行長の政敵でもあった加藤清正が、キリシタンを抑制するために日蓮宗を入れようとします。しかし、まだこの時代は、小西行長寄りのキリシタンが多く、徳川幕府による組織的な迫害も、まだ始まっていませんでした。(1,2)
ペトロ岐部と187殉教者 2
闇から光へ─萩・山口の殉教者─
取材協力:結城了悟神父(イエズス会)
広島市内の太田川を遡ると備前高松城があります。この城で生まれ育った熊谷元直は、毛利輝元の重臣として仕えるようになります。闇に包まれた戦国時代末期の1586年、熊谷は毛利軍に従い、島津氏討伐のため九州へ赴き、そこでキリシタン大名の黒田孝高に出会い、彼の影響のもとで洗礼を受けます。戦時下ということもあり、そんなに熱心な信仰生活を送ってはいませんでした。1600年の関ヶ原の戦いを境に外様大名となった毛利輝元は、中国地方の八つの国を支配していたものの、徐々に国を失い、最後には山口と萩の二つだけになってしまいます。このころ、熊谷はキリスト教に光を見いだし、とても熱心な信仰生活を送り始めます。特に司祭不在であった教会に責任を感じ、信者たちの育成に励みました。同じ頃、「毛利家が二つの国だけになってしまったのは、自分の領地にキリシタンがいるからだ」と僧侶たちが陳情し、以来、毛利輝元はキリシタンに対する取り締まりを強化します。毛利は再三、熊谷に「信仰を捨てるように」と促しますが、彼は「捨てない」と。(1,2)
ペトロ岐部と187殉教者 3
勇気ある信仰─薩摩の殉教者─
取材協力:片岡瑠美子修道女(長崎純心聖母会)
「外観はやせ型で背が高く、穏やかで口数が少なく、その行動は慎み深い武士」とドミニコ会のオルファネル神父はレオ税所のことを描写しています。レオは強い意志を持ち、洗礼から殉教までが3か月と26日と凝縮した信仰の中でイエスの生き方を受け入れた人でした。彼について「善に向かって突進するレオ(ライオン)」「勇気あるレオ」「神の慈悲がその心に触れた人」といった記録が残されています。(3,4)
ペトロ岐部と187殉教者 4
受け継がれていく信仰─生月の殉教者─
取材協力:片岡千鶴子修道女(長崎純心聖母会)
フランシスコ・ザビエルが1550年に平戸を訪れた時、木村家の人々に洗礼を授け、平戸にキリスト教の種が蒔かれます。その後、松浦家(平戸藩主)の重鎮で生月を支配していた籠手田氏と一部氏が洗礼を受けます。生月に生まれたガスパル西は1558年、2歳の時に父とともに受洗。西家は籠手田氏の家臣として働き、生月で総奉行を務めていました。籠手田氏が平戸の城下町に住んでいたこともあり、実質的には西家が生月を管理していました。(3,4)
ペトロ岐部と187殉教者 5
信仰教育に裏打ちされた殉教時代の教会─有馬の殉教者─
取材協力:古巣馨神父(長崎教区)
有明海に静かに流れていく有馬川。川幅は狭くても、その河口は広く、遠くには島原の乱で有名な原城祉を眺めることができます。1613年10月7日、この河口の中洲で3家族8名の信徒が、2万人の仲間の祈りに包まれながら殉教していきました。(5,6)
ペトロ岐部と187殉教者 6
司祭不在の中で活動する宣教者─天草の殉教者─
取材協力:片岡瑠美子修道女(長崎純心聖母会)
1614年1月、天草の志岐の主任司祭ガルセス神父が追放され、60歳を過ぎたアダム荒川に信徒たちの世話が委任されます。彼は司祭不在の中で、勇気をもって使命を果たしていきました。(5,6)
ペトロ岐部と187殉教者 7
母と子どもの深い絆─京都の殉教者─
取材協力:レンゾ・デ・ルカ神父(イエズス会)
ゆったりとした流れの中で歴史を刻んでいく京都の鴨川。都の中心を流れるこの川で殉教の血が流されたことを誰が想像できるでしょうか。清らかに、時には朗々と流れていきます。江戸時代初期の日本の三大殉教と言えば、長崎、江戸、そして京都。1622年の長崎、1623年の江戸に比べ、京都の殉教は女性や子どもが数多く含まれているのが特徴です。(7,8)
ペトロ岐部と187殉教者 8
父親の模範─小倉・大分・熊本の殉教者─
取材協力:溝部脩司教(高松教区)
親の姿を見て子どもたちの信仰が育まれ、信仰が深まっていきます。小倉・大分・熊本の殉教者たちには、そうした親子の熱い絆に結ばれた信仰があります。(7,8)
ペトロ岐部と187殉教者 9
闇に光る十字架─江戸の殉教者・原主水─
取材協力:溝部脩司教(高松教区)
原主水は、下総(現在の千葉県)の臼井城主の嫡男として生まれます。父は北条家に仕え、豊臣秀吉との小田原の合戦に参戦しますが敗北し、江戸にて切腹。父を亡くした主水は小姓として徳川家康に仕え、京都の伏見へ行きます。主水は背が高く、勇猛な武将として名を馳せます。その間、イエズス会の神父に出会い、1600年に大阪でモレホン神父から洗礼を受けました。(9,10)
ペトロ岐部と187殉教者 10
危機を乗り越えた宣教─広島の殉教者─
取材協力:結城了悟神父(イエズス会)
遠山甚太郎は1600年、甲斐の国(現在の山梨県)で、浅野幸長の家臣の家に生まれます。幸長が関ケ原の合戦の恩賞として与えられた紀伊の国(現在の和歌山)に入城した時、遠山家も有力な家臣として一緒に移りました。15歳だった甚太郎は、紀伊にいたフランシスコ会のアポリナル・フランコ神父に出会い、話を聞いて洗礼を受けます。彼は非常におとなしく、やさしい性格で、信心深く、心が広く、フランシスコの霊性に従って生きる道を選びました。やがて結婚し、妻も信者になったと思われます。彼の大きな家はすべての宣教師のために開かれ、紀伊での小さな教会のような様相でした。当時、和歌山には教会がなく、1614年に宣教師が追放されたこともあり、常駐の宣教師がいませんでした。けれども甚太郎は宣教師が訪れると宿を提供していました。やがて「甚太郎が宣教師に宿を与えている」といううわさが広がり、舅は彼を呼んで「宣教師に宿を提供しないでください。危ないですから」と言うと、甚太郎はやさしい表情で「私にそのことについて何も言わないでください。自分は危険があることを十分知っています」と。1619年、彼の主君である浅野長晟が広島へ移り、彼もそれに従いました。(9,10)
ペトロ岐部と187殉教者 11
聖体に育まれた殉教者たち─島原・雲仙の殉教者─
文:古巣馨神父(長崎教区)
セミナリオ、コレジオ、そして信徒活動の組の養成、かつて島原半島はさながら日本の教会の「ガリラヤ」のようでした。やがて来る殉教時代、その育まれた信者たちの信仰は鮮やかに証されていきます。(11,12)
ペトロ岐部と187殉教者 12
無償による慈悲の心─西坂の殉教者・ミカエル薬屋・ニコラオ福永ケイアン─
取材協力:レンゾ・デ・ルカ神父(イエズス会)
1583年、社会福祉的なミゼリコルディア(慈悲)の組が長崎で組織され、その本部が興善町に置かれます。この組は社会から見捨てられた病人に薬を持って行ったり、病気を癒したり、彼らのために祈ったり、亡くなった時には遺体の埋葬を手伝ったりしました。特に長崎は貿易港ということもあり、外国から薬や漢方薬などを手に入れては、病に苦しむ人たちの治療にあたりました。その当時、刀傷を負った人が多く、放置すると化膿してしまいました。その中でも、鉄砲の弾は鉛製で非常に軟らかく、体内に残ると死の危険さえありました。日本では弾を取り出す手術は施されておらず、彼らは外国の宣教師たちから摘出方法を教わっていました。こうした治療により、数多くの人の命が助かります。しかも兄弟愛、慈悲の心、無償で治療にあたることもありました。(11,12)
ペトロ岐部と187殉教者 13
強靱な信仰と精神を持つ司祭─大坂の殉教者・ディオゴ結城了雪─
取材協力:レンゾ・デ・ルカ神父(イエズス会)
ディオゴは1574年、四国の阿波国(現、徳島県)の徳島に生まれます。祖父は足利将軍の弟にあたり、身分の高い家系でした。少年ディオゴは、高槻のセミナリオに入学します。1587年には禁教令のため、有馬の八良尾にあるセミナリオに逃れ、1595年、天草でイエズス会のセミナリオに入り、天草・河内浦のコレジオで学び、1601年から3年間、ジュリアン中浦とともにマカオに留学します。ラテン語の手紙が2通残っていますが、非常にきれいなラテン語です。ラテン語を自由に、またきれいに書ける人で、高い教養を身につけ、目上に対しても、迫害者に対しても礼儀正しい人でした。(13,14)
ペトロ岐部と187殉教者 14
忠実さを生きる修道司祭─西坂の殉教者・ジュリアン中浦─
取材協力:平林冬樹神父(イエズス会)
ジュリアンは1567年ごろ、西海市の中浦に生まれます。2歳の時に父が亡くなり、母の祈りによって支えられ、育てられます。母はジュリアンがセミナリオへ行くよりも立派な侍になってほしいと望んでいました。しかし、母の望みとは異なって、彼は12歳の時、司祭を目指して有馬のセミナリオへ第一期生として入学します。(13,14)
ペトロ岐部と187殉教者 15
魔法を使う宣教師─西坂の殉教者・トマス金鍔次兵衛─
取材協力:片岡千鶴子修道女(長崎純心聖母会)
次兵衛は1600年頃、大村に生まれます。父はレオ小右衛門、母はクララおきあ。信仰深い家庭に育てられ、次兵衛の信仰が養われました。後に彼の両親は殉教したと言われています。6歳で有馬のセミナリオに入学し、イエズス会の同宿となります。1614年、江戸幕府がキリシタン禁令を発布し、彼はマカオに追放され、マカオのセミナリオで学びました。ところが日本人の学生に対する偏見などでセミナリオは閉鎖されます。20歳の次兵衛は日本に戻り、伝道士として信徒たちを助けました。迫害下にあって信徒たちを最も慰めたのは秘跡でした。それを実感した次兵衛は司祭への道を希望し、1622年にマニラへと旅立ち、アウグスチノ会に入会します。この時代はまだ、ポルトガル船が貿易のために往来し、マニラへ行くことは可能でした。1639年になると、ポルトガル船の来航は禁じられてしまいます。1628年、フィリピンのセブ島で司祭に叙階され、帰国したいと切に願いました。しかし、帰国の許可はなかなか長上からは出ませんでした。(15,16)
ペトロ岐部と187殉教者 16
希望を生きる宣教者─江戸の殉教者・ペトロ岐部─
取材協力:平林冬樹神父(イエズス会)
1587年、ペトロ岐部は国東半島の浦部に生まれます。父はロマノ岐部、母はマリア波多で、信仰深い家庭に生まれました。13歳の時に有馬のセミナリオに入学。セミナリオ卒業を間近に控え、イエズス会に入会したいと思いましたが、実現しませんでした。その後、同宿として甘木と秋月で働きます。(15,16)
ペトロ岐部と187殉教者 17
人々から愛され、惜しまれた教会─米沢の殉教者・今日模索する教会の姿─
文:古巣馨神父(長崎教区)
1629年1月12日、雪に覆われた米沢盆地の北山原、糠山、新藤ヶ台の三か所で53人がキリストの証人として殉教しました。男性30人、女性23人、うち5歳以下の幼児が9人。「ここで死ぬ者たちは信仰のために命を捨てる潔い人たちである。皆の者土下座するようお願い申す。」立ち会った奉行の声が刑場にこだました、とイエズス会士バッチスタ・ポッロ神父の報告書には記されています。(17,18)
ペトロ岐部と187殉教者 18
ペトロ岐部と187殉教者─まとめ─
17回にわたって「ペトロ岐部と187殉教者」を紹介してきました。殉教者の生き方は、現代社会や教会に力強いメッセージを与えてくれます。どんな内容が込められているかを振り返ってみましょう。(17,18)
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