福者ペトロ岐部司祭と187殉教者

恵みの風に満たされて

ペトロ岐部と187殉教者列福式(2008年11月24日)

「ペトロ岐部と187殉教者」の列福式が2008年11月24日、国内で初めて長崎市の「長崎ビッグNスタジアム」で開催され、内外の信者約3万人が心を一つにして祈った。

 
パウロ会の人々.jpg 雨が降る肌寒い中、12時すぎに鐘が響き渡った。殉教者たちもこうした雨風に打たれながら、迫害を耐え忍んだのであろう。香炉、十字架、ろうそく、殉教地の土、聖遺物、福音書などとともに、司祭団、列席司教、共同司式司教(岡田武夫大司教、ポッターリ・デ・カステッロ大司教、高見三明大司教、溝部脩司教)、白柳誠一枢機卿、臨席教皇代理ジョセ・サライバ・マルティンス枢機卿の順で入堂。ゆったりとした時の流れと行列の中、12時30分にミサが始まった。
 
 聖遺物が祭壇内部に安置され、主司式者の白柳枢機卿による祭壇と聖遺物への献香。急に風が強くなり、香が祈りとともに届くようだ。
 
会場.jpg 白柳枢機卿が初めの挨拶。「皆さん、ついに喜びの日がまいりました。今日、この日のために教皇様は特使を送ってくださいました。サライバ枢機卿様が教皇様の特使です」と挨拶すると大きな拍手が湧き起こった。「またこのために私たちと最も深い関係にあるローマの福音宣教省の長官ディアス枢機卿様が来ました。またアジアの諸国からいろいろな方々が来てくれました。ベトナムのホーチミン市のミン枢機卿様。アジアの司教協議会会長のトマス司教様、韓国の司教協議会会長のカン司教様と7名の司教様。台湾から一人、ベトナムから3人の司教様。それに聖公会とルーテル教会」と語った。
 
うちの連中.jpg 「あわれみの賛歌」の後、列福の儀が始まった。教皇代理ホセ・サライバ・マルティンス枢機卿(前教皇庁列聖省長官)が席に着くと、12時35分、管轄権者である岡田武夫大司教と列福申請人のロホ神父が教皇代理の前に進み出て、岡田大司教が「日本カトリック司教協議会会長であるわたくしペトロ岡田武夫東京大司教は、ベネディクト十六世教皇聖下に対し、1603年から1639年に殉教した神のしもべ、イエズス会盛式誓願修士ペトロ・カスイ岐部司祭と一八七人の尊者を、福者の列に加えてくださるようここに謹んでお願い申し上げます」とイタリア語と日本語で要請。再び風が強くなり、聖霊の力強い恵みを呼び起こすようだった。
 
内野連中.jpg その後、フェルナンド・ロホ神父が、スペイン語で殉教者の全体像を紹介した。「神のしもべ、ペトロ・カスイ岐部と187殉教者は9つの教区の出身者であり、種々の社会階層、年齢、地位に属しています。大きな身分の人、素朴な農民もいます。身分からして無抵抗で死ぬことは、最大の恥でした。この機会を待ち望み、全員盛装で待ち望みました。老人、若者、少年、少女。両親からの教育と聖霊の働きが同時に表れる子どもたち。両親の腕に抱かれて受洗し、その後、同じように両親の腕の中で殉教を遂げた幼児。ただいま列福される人は信徒183名、イエズス会員4名、聖アウグスチノ会員1名。合計188名です。日本の教会は信徒の傍らに日本の信徒の初穂である司祭や修道者の姿がなければ完全とはいえません。これらの殉教者はかつて列聖・列福された外国人の兄弟たちと同じく、当時の教会を通して命をささげつくしました。ローマと全世界の教会と深い絆を作りました。特徴ある状況下にあって、一人ひとりが皆勇敢に信仰を告白しました。皆、責め苦や拷問に往々しく耐え抜きました。歌いながら、祈りを口にしながら、命をささげました。皆、死より愛がはるかに強いことを示しました。(この言葉のときに激しい風が吹く)キリストを証した殉教者であるこの188人が残したキリスト教への忠実な模範は、歴史の素晴らしい一ページです。私たちはそれが全教会で公に認められることを願っています。現代における日本のキリスト者が持つ夢が実現します。今日、待ち続けた人々のおかげで日本のキリスト者の遺産が喜びのうちに生かされるのです」と語った。
 
 続いて、殉教地ゆかりの各教区の司教がその地の殉教者を紹介した。
 
 12時55分、列福式でのメインとも言える「列福宣言」が行われ、教皇の命で書簡がラテン語と日本語で朗読され、1603年から1639年に殉教したペトロ岐部と187殉教者が福者の列に加えられた。
 
司教団1.jpg その内容は、「私は兄弟である以下の司教たち、枢機卿ペトロ白柳誠一前東京大司教(各地の司教たちの名前が続くが中略)とほかの多くの司教たちおよび日本の兄弟姉妹である全信者の請願を受理し、列聖省の助言に基づく審議の結果、1603-1639年に日本各地で殉教した神のしもべ、イエズス会盛式誓願修士ペトロ・カスイ岐部司祭と殉教者である以下の尊者を使徒的権威によって福者の列に加えます。(各地の殉教者たちの名前が続くが中略)イエス・キリストの福音を勇気をもってあかししたこの殉教者たちの記念日は、法令の定める場所と形式に従い、毎年7月1日に祝うことにいたします。父と子と聖霊のみ名によって。アーメン。ローマ聖ペトロのかたわらにて。2008年11月21日、教皇在位第3年目に。教皇ベネディクト十六世」と読み上げられ、大きな拍手が湧き起こった。
 
 教皇書簡の朗読が終わると同時に新福者の肖像画が除幕され、鐘の響きとともに平和のシンボルである188羽の鳩が放たれた。会衆一同、「アレルヤ。すべての国よ神をたたえ」を歌い、三万の人々の歌声が力強く響いた。
 
肖像画.jpg 岡田武夫大司教が、「この列福が多くの人々の祈りによって支えられ、憐れみに満ちた神の恵みの賜物」であることを語り、さらに「日本の教会の悲願であり、今日はまさに喜びの日である」ことを、教皇代理に列福への謝辞を述べた。1時12分、主司式者は「栄光を賛歌」を先唱し、ミサが続けられた。
 
 その後、集会祈願が唱えられ「全能永遠の神よ、福者ペトロ岐部と一八七人の殉教者は、人間の弱さの中で働かれるあなたの力に支えられ、厳しい迫害の時代に、キリストへの信仰のために惜しみなく命をささげました。わたしたちも殉教者の模範にならい、聖霊の助けに信頼して自らをささげ、神を信じる喜びを力強くあかしすることができますように」と祈った。
 
司教団1(福者の紹介).jpg 第一朗読はマカバイ記下が朗読され、第二朗読はローマ書が朗読された。「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難が。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。『わたしたちは、あなたのために一日中死にさらされ屠られる羊のように見られている』と書いてあるとおりです」の言葉には、殉教者たちがそれぞれに体験した思いがひしひしと伝われるようであった。
 
 福音書はヨハネ福音書が朗読され、「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」と、殉教者たちの証がよみがえるようであった。
 
 説教は白柳誠一枢機卿が行った。
 
マルティンス枢機卿1.jpg 「私たちは今、ペトロ・岐部と187殉教者が列福され、大きな喜びと深い感動を味わっています。ところで、<殉教者、殉教者>といとも簡単に呼んでいます。いったいどのような人を殉教者と呼ぶのでしょうか。まずその言葉の意味をはっきりさせることから考えてみます。カトリック教会では伝統的に信仰の真理を証するために、すなわちイエス・キリスト、神様の愛を忠実に証明するために命をささげた人を指しています。これはイエス・キリストに倣う最高の生き方であり、キリストの証と救いの業への最高の参与として捉えられています。新約聖書の終わりのことばにヨハネ黙示録に<忠実で真実なるキリストに倣って、教会と世界に証を受けた試練と栄光>をたたえています。教会の歴史を見てみると、初代教会から現代にいたるまで、世界の各地でキリストに倣って血を流して神様を証した殉教者は枚挙にいとまがありません。日本におけるキリスト教の歴史で、1549年、フランシスコ・ザビエルの来日によって始まりました。彼らは習慣、言葉などの違いにより、大きな困難に遭遇しましたが、宣教師たちの熱意と日本人の信徒の協力により、困難の中にあっても、30万人の信徒があったと数えられています。当時の日本の社会は群雄割拠の時代で、宣教師が自由に働けるか否かは、その地方の権力者である大名によって決められていました。快く受け入れた大名、条件つきで受け入れた大名、反対の大名もいました。フランシスコ・ザビエルは当時の都・京都を訪れ、日本全国への宣教許可を求めるために、願ったところ、その面会は拒絶され、失望のうちに京都を離れたことはよく知られています。織田信長のあとを継いだ豊臣秀吉の時代に入ると、日本の社会がほぼ統一に向かい始め、キリスト教に対する態度が変わってきました。1587年、秀吉は宣教師たちの追放を命ずるバテレン追放令を行いました。地域的に温度差はありましたが、各地で迫害が始まりました。まずキリスト教を宣べ伝える宣教師とその身近な協力者が迫害の対象となりました。次第に対象も広げられ、秀吉の追放令が出て、10年後の1597年にはフランシスコ会のペトロ・バプチスタ神父、イエズス会のパウロ三木をはじめとする聖職者9人、信徒17人とともに、いわゆる26聖人の殉教がありました。
 
 徳川時代に入り、家康、秀忠、家光と代を重ねるに従い、迫害は熾烈を極め、殉教者の数が増大していきました。キリシタン研究家である溝部司教によりますと、名前、殉教者の日時、場所が正確にわかっている殉教者だけでも5500人をくだらないそうです。また確かに殉教したけれど、名前のはっきりしないものは約2万人にも及ぶと言います。
 
 これらのことは、当時の唯一の司教セルケイラ(大分)、宣教師がローマ、あるいは総本部に報告書を日本の各地に残されている歴史資料、文書などによって明らかにされています。ちなみに当時、外国に送る手紙や報告書などは、確実に届くようにと一度に三部作成され、違った船で送られたため、ローマの教皇庁の資料室には同じ文書が二通あるのもあります。
 
挨拶(マルティンス枢機卿).jpg これらの多くの殉教者たちのうち、すでに26聖人、205福者、さらに16人のドミニコ会関係者が公に聖人・福者として宣言されています。今日、新たにペトロ岐部と187人の殉教者が福者として宣言されました。今、一人ずつ紹介することはできません。司教様方がお話してくださいました。私はこの殉教者たちに共通することを話したいと思います。今日の殉教者は日本各地から選ばれました。そして時代を超えて各地で尊敬され続けてきた人たちです。北から申し上げますと米沢の53名、江戸の2名、京都(中略)薩摩の一人。
 
 この188殉教者は、全員日本人で信徒183人とその信徒たちに命をかけて徹底的に伝えた代表的な4人の司祭と一人の修道士です。また性別、年齢、職業も違い、男性は121名、女性67名。最年長は80歳、最年少は幼児。何と1歳から4歳までの子どもが26人もいました。その他の人たちはほとんど働き盛りの人たちです。職責としては、上級武士、下級武士、その家族、一般庶民、農民などとその妻、子どもたち。身体障害者も2人います。このたびの福者で目立つことは、一家そろっての殉教です。主人、妻、子どもたちというケースがたいへん多いことです。これは司祭たちによる熱心な信徒の育成、また家族一体になっての信仰の実践。近所の家庭がいっしょになって教会の役割を果たしていました。特に迫害下にあっては家庭教会として信徒たちが役割分担して子どもたちに教理を教えたり、いっしょに祈ったりして信仰を深め、神様の特別な恵みで殉教をも受け入れることができました。同時に忘れることができないのは、司祭たちが決死の覚悟で(もちろん司祭たちはみんな殉教しましたが)決死の覚悟で頻繁に、密かに信徒の家庭を訪れ、ミサ、ゆるしの秘跡を授け、励まし続けたのです。例えば、中浦ジュリアンという司祭は、一年に4000人以上のゆるしの秘跡を授けたと言われます。どれほど信者の家庭を訪ねたかが分かります。一家そろって殉教した家庭と言えば、京都の橋本、妻テクラ、5人の子どもたち。八代のシモン竹田、妻アグネス。小笠原玄也とみやと9人の子どもたち。
 
岡田1.jpg 迫害はこの国ではたいへん長く続きました。その残酷さも極めてひどいものです。そして弾圧の厳しさ、これは世界に類のないものです。このたび列福された殉教者は1603年の八代から1639年の江戸の殉教者まで、36年間の殉教した方々の一部です。しかし、徹底的な弾圧、キリスト教の壊滅を喫して踏み絵を通して信仰を調べる。5人組制度による詮索。懸賞金をかけての調査。役人の前で毎年、自分の宗教を申告する制度、宗門改などによる弾圧は長く続きました。宗門改は鎖国が始まってからも222年間、1864年まで続き、またキリシタンの高札は明治時代までも続けられました。このような苛酷な条件の中でも、代々家庭での信仰が受け継がれ、1865年3月17日、迫害下250年、7代にわたって信仰を伝承し、当時の浦上信者の再発見がありました。これは世界を驚かせました。私たちの先輩たちの信仰の質の高さ、その深さを感じないわけにはいかない。このように日本の歴史を垣間見てきました。
 
司祭団1.jpg 最後に私たちは、この殉教者たちが私たちに何を伝えたいのか、彼らの列福にはどんなメッセージがあるのか、これをご一緒に考えてみたいと思います。聖パウロはさきほど朗読にもありましたが、ローマの信徒への手紙の中で述べています。「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難が。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。『わたしたちは、あなたのために一日中死にさらされ屠られる羊のように見られている』と書いてあるとおりです」と。日本の殉教者も聖パウロと同じことを叫んでいます。神様の恵みに信頼して、信仰に生きることを恐れるなと、私たちに叫び続けています。また家族全員が一緒に殉教したケースが多いと申し上げました。家族は最小の共同体です。全ての家庭がしっかりしていれば、社会もしっかりしたものになります。殉教した家族は、信仰、希望、愛に固く結ばれ、共通の価値観を持ち、何が起きても動ぜず、困難に出遭えば互いに助け合い、励まし合いました。現代の社会ではこのような家庭を見い出すのはたいへん難しいと言われます。まして死より強い愛で結ばれた家庭であるならば、私たちの鑑でもあります。そのような家庭には生きる喜び、生きがい、充足感があります。このような家庭を作るようにと殉教者たちは私たちに強く呼びかけています。そのために殉教者に倣い、家庭で皆そろって神のみことばに親しみ、ともに祈ることが必要でしょう。キリシタン時代の信徒は、近辺の方々と交わることをたいへん大切にしていました。例えば米沢では、キリシタンの生活を立派に話し、迫害しないように頼み込んだといいます。また役人もそれを知っていて、信徒を捕らえたり、臆することなく、処刑の日になって致し方なく行った。また近所に住む処刑する人がキリシタンの家を訪ね、酒を飲み交わし、許しを願ったという話もあります。使徒言行録は初代教会について述べています。<一同は使徒たちの教えを守り、兄弟的交わりを大切にし、パンを手で裂き、祈りをしていた。信じる人たちは皆一つとなり、すべてのものを共有し、財産や持ち物を売り、それぞれの必要に応じて皆で分配していた。かれは全ての民に好意を持たれた。主は救われる信者の数に加えてくださった>。私たちの教会が隣人との交わりを大切にし、隣人を愛し、神の愛の目に見える印となるよう、殉教者は私たちに話しかけています。
 
祝福1.jpg 最後に、殉教者は呼びかけています。毎年、3万人以上の自殺者が出る日本の社会に呼びかけています。生きることはどういうことなのかと。死ぬとはどういうことなのか。人間は何のために生きるのか。人生の目的、人生の意義とは何か。苦しみには意味があるのか。このような人生の根本問題について、私たちが深く考えるように呼びかけています。信仰の自由を否定され、殺された殉教者は叫んでいます。神の似姿に創られた人間の尊厳性。また人間が持つ固有な精神的能力、考え、判断し、表現する自由などの重要性。それに反することを避けるように強く呼びかけています。中でも人間の生きる権利が胎児のときから死に至るまで大切にされる。また現代的な問題についていうならば、武器の製造とか、売買、それを使っての殺人行為、戦争、極度の貧富の差による非人間的生活を余儀なくされている者たちへの配慮など、すべての人が大切にされ、尊敬され、人間らしく生きることができる世界となるよう、祈り、活動することを求めています。皆さん、恐れずに私たちも進みましょう。<恐れるな、恐れるな>と神様が、殉教者が叫んでいます。わたしたちのこの切なる願いを、殉教者の母、私たちの母、聖母マリアが取り次いでくださるように祈りましょう。恐れずに進みましょう。」
 
 信仰宣言のあと、福者ゆかりの教区から9つの共同祈願がささげられた。
 
 その後感謝の典礼に入り、奉納が行われ、殉教者とゆかりの深い地からそれぞれの品がささげられた。奉納祈願では、「福者ペトロ岐部と187人の殉教者が、あなたの愛に支えられてすべての苦しみに打ち勝ったように、わたしたちの心にも愛の火を燃え上がらせてください」と祈った。感謝の祈り(第3奉献文)がささげられ、交わりの儀へと移り、聖体拝領においては約200名の司祭たちが奉仕。
 
鳩.jpg 聖体拝領後、教皇代理のジョセ・サライバ・マルティンス枢機卿(前教皇庁列聖省長官)がメッセージを送った。「愛する日本の地の皆さん、ペトロ岐部と187殉教者の列福の主宰の命をいただいた私は、ここにいらっしゃる皆さんと、また遠くで分かちあっていらっしゃるみなさんと喜びを共にしたいと思います。教皇ベネディクト十六世が私に赴くことを委ねたこの深い意義深い出来事を幸せに思います。教皇の使徒としての、父としての祝福を送ります。教皇ヨハネパウロ二世は1981年2月26日、まさにこの地においてこう語りました。<たくさんの信徒が自らの命をささげてキリストへの忠実さを示したこの地長崎を巡礼者の一人に加わりたいと思っています>。西坂において1597年2月5日、26人が十字架の力を借りて証しました。この人々は、その後に続く苦しみを通して命をかけてこの国を聖なる場所にしていった殉教者の初穂でした。今日、長崎の26人、そしてあとに続いてすべての殉教者に心から感謝をしようと訪れています。本日の列福を通して、教皇の預言的なことは実現をみたといってもいいと思います。4世紀を経て188人もの偉大な信者に光が当てられました。その人々はキリストへの信仰にいのちをかけた証する賜物を受けたのです。福者の列に加えられました。いつの日かこれらの人々が、聖人に列されることを願っています。年齢と環境が異なり、場所と時間が違っても、多くの殉教者が示している忠実さは命をかけて証することが、人間が持つ自由の最高の表現、最大の愛の行いであり、それは教会の教えが生きていることの印です。聖アウグスチヌスは<迫害や拷問が殉教を生むのではなく、キリストが証の理由であり、動機なのである>と書いています。人々に向かう愛の何ものでもないというキリスト教におけるこの殉教の大きな特徴を常に明らかにする必要があります。未来に向かって不安を感じている私たちの世界において、その衣を小羊の血で洗って白くした人々の模範は、信頼にたる出発点であり、信仰の公の証です。それは私たちが理想としていることを表現し、神の子となった人々の間の親しい交わりを深めるものだからです。主イエスの<これを私の記念として行いなさい>という言葉によって、日々新にされている教会は、同時に<行って福音を宣べ伝えなさい>というキリストを宣教する教会でもあり、それはまた血が流されてできる教会でもあります。それゆえ本日の私たちの集いは、信仰と教会の交わりを味わう喜ばしい体験のひとときです。それはたくさんの男性と女性の信仰、若者と子どもたちの、独身者と家族の、その多くが信徒であったキリストへの信仰を、血を流してでも言い表そうとした信仰によって築かれた教会です。こうしたことから回勅『真理の輝き』は、<殉教は教会のすぐれた聖性であり、それは宣教へと発展するものである>ということを強調したのです。殉教者の一段によってこのように養われ、教会で栄位をたたえられた日本の神の民のすぐれた証言はそれゆえ長い期間働き続ける原動力であり、日本の教会共同体のこれからの、日本の全体の未来のための希望の泉となるものです。
 
 また長年、列福に携わってきた溝部司教(列福列聖特別委員会委員長)が主催者を代表して謝辞を述べた。「日本188列福が荘厳に執り行われたことを心から感謝します。これは日本の教会にとって最高の喜びであり、感謝の日でもあります。日本の教会の土台を築いてくださった先達への感謝でもあり、普遍教会とのつながりでお祝いができたことへの感動でもあります。枢機卿様がローマに帰られるとき、熱い思いを伝えていただければと思います。1981年より始まった列福運動は27年の歳月を経ました。長いといえば長い、短いといえば短い歳月でした。この間、ローマの列福聖省は、戸惑うばかりの私たち準備委員を励まし、目に見える形で配慮してくれました。振り返ってみますと、私は枢機卿様と8回お会いしました。今日で9回目です。国務長官とは2回、教皇様とはそれぞれ一回ずつ会っています。恥ずかしいほど無知だった私たちを、初歩の段階からどのようなプロセスでことの実現をするかを懇切丁寧に教えてくださいました。何よりも大きな励みでした。この間、実感したことは日本教会は世界の教会とつながっているということです。この27年間を通して感謝を申し上げたい方々がいます。最初にこれを発案なさった司教様がた。その多くは現役を引いています。この世を去っています。特に最初からご尽力くださった白柳枢機卿様、平山司教様にはこの場を借りまして感謝申し上げます。きっと感無量のことと思います。
 
退堂.jpg 歴史資料で提出する資料の大半を書いてくださった故チースリク神父様、そして7日前に亡くなり、老いてなお列聖の情熱を失わずに働き続けてきた日本26聖人記念館前館長結城神父に特別のお礼を申し上げます。(拍手)特に公的なことをなさってくださったオーボンク神父様にもお礼を申し上げたいと思います。どんな賛辞を述べても足りない働きをしてくださいました。この三人なしには列福は実現しませんでした。今回の列福運動は、日本の教会の刷新と活性化を求めたところに特徴があります。400年を経て、共通の思いでいる私たち信仰者は有しています。時代が変わっても、その時代を生き抜く力と勇気を、今を生きる私たちは先達からいただいています。その時代を生き抜いた信仰者は、現代を生きる私たちに、メッセージを投げかけています。真摯にそれを受け止め、毎日の生活において実践していくことを誓って私のお礼のことばに代えさせていただきます。」
 
 午後3時37分、白柳枢機卿は「皆さんの心の中に、神様の愛の炎が燃え立ちますように、神様の祝福を祈ります」と語り、派遣の祝福が荘厳に行われた。