教会の事業
1939年9月、かねてから険悪を伝えられていたヨーロッパに、第二次世界大戦が起こったが、日本におけるイタリア人の上には、さしたる変化がなかった。むしろ翌年に調印された日独伊軍事同盟などの関係から、好意的に扱われたといえよう。
この間の神父たちの活動は、教会内の壮年、婦人、青年、姉妹の各会の指導、日曜学校、幼稚園、小学生学習会の経営、ボーイ・スカウト、ガール・スカウトの育成など、多彩なものであった。小川せい氏などの熱心な協力者を得て、幼稚園はおよそ100名、米村嘉一郎氏一家の熱意により、ボーイ・スカウト、ガール・スカウトは一時120名に達した。
求道者の獲得が困難であったため、幼稚園児たちの祈りを唱える姿に、わずかながら慰められていたのである。



やがて国内の戦時色はますます濃厚となってきたし、生活物資の統制も次第に強化されてきた。このころ、神父たちは会の事業を確立するためには、どうしても強力な資金的援助が必要と考え、1940年ベルテロ神父を、アメリカへ派遣した。だが翌年12月に太平洋戦争が始まり、ベルテロ神父は終戦まで日本に戻ることができなくなった。
戦時下の圧迫、移転
神父たちの努力は次第に実を結び、このころまでに教会の信者数は当初の30名から300名ほどに増加していたが、戦況の深刻化とともに、出征、徴用のため、あるいは外国人を避ける世間一般の風潮から、次第に日曜日のミサにあずかる信者の数が減少してきた。
またこの地区は軍需産業、軍施設が多いため、外国人の姿は何かと疑惑の目を持って見られがちであった。トラポニーニ修道士がスパイと間違えられて赤羽警察署の調べを受けたこともあったが、それも小学生の信じるに足りない告げ口によるものであった。当時、岳野恭一氏(慶作氏の弟)が教会の伝道師を務め、外部との折衝にあたり、神父たちを援助した。
1941年より政府は各種企業の整備を行ってきた。そしてカトリック系出版社も統合か廃業かの岐路に立った。関係者の協議が行われ、1943年11月、「誠光社」をも含めたカトリック系出版社(6社)が東京教区内において統合することとなり、名称は「中央出版社」となった。聖パウロ修道会はその印刷所を担当し、パガニーニ神父が監督に当たることとなった。
1943年7月、イタリアに政変が起こり、ムッソリーニが失脚した。その日、数名の刑事が教会を訪れ、神父たちを一室に集めて、種々の質問を浴び、しばらくの軟禁を言い渡した。イタリアの連合軍への降伏後はいっそう監視の目が厳しくなった。当時、生活上の都合からNHKの海外放送に関係していた神父たちには、教会と放送局との間の往復に、私服の刑事がお伴していった。



当時から終始神父たちのために配慮してくださったのは、特に前浦和教区長内野作蔵師と神田教会の主任司祭であった志村辰弥神父であった。 軍関係の施設が多い王子区内に留まることは、情勢上好ましくないと判断した神父たちは、中央出版社との関係も考えて、都心に住居を求め、新宿区内に篤信の信徒の家を借り受けることができた。現在の聖パウロ修道会若葉修道院にあたる場所で、木下熊男氏の所有であった。
1944年5月頃、マルチェリーノ神父を王子教会に残し、会員たちは四谷(新宿区)に移転した。マルチェリーノ神父は教会に留まったとはいえ、事実上司牧の務めを行うことは不可能に近かった。
1944年8月24日、マルチェリーノ神父とパガニーニ神父とは、連合軍側のスパイ容疑で逮捕され、マルチェリーノ神父は四谷署に1か月半、パガニーニ神父は麹町署に2週間留置された。この事件は神父たちの談話を曲解した人の密告によるものであった。神父たちはこの苦難を、最初の使徒たちに倣い、主の御名のために忍び、日本のためにささげた。
この頃、かねて中国に派遣されていたテスティ神父が来日し、会員たちに大きな喜びを与えたが、戦況の不利となるにつれ、中国の会員の安否を気遣って、再び危険を冒して南京に帰っていった。
初期の志願者
聖パウロ修道会の主力は教会およびその事業に注がれざるをえなかったが、神父たちは、邦人会員の養成に心を用いなかったわけではなかった。
しかし、信者数の少ない東京では志願者を見出すことは容易ではないし、遠隔の地の人々は、わずかに発行された書物を通じてのほか、聖パウロ修道会の存在を知るはずがなかった。
それでも、神父たちの来日以来、10数名の青少年が会に出入りしたが、1943年頃にはわずか4名の神学生しかいなかった。その中の1人はすでに軍隊に入っていた台湾出身の星村神学生で、すでに1939年12月のクリスマスに着衣を許されていた。他の3名は東京出身の桑島、札幌出身の萱場、宮城県出身の細渕の3名の神学生であった。桑島、萱場の2名は、関口の中神学校においてロス司教のもとでラテン語の勉強を始めていたが、当時の校長は後の荒井司教であった。細渕神学生はやがて胸を患って入院、その若い生命を聖パウロ修道会のために捧げて帰天したが、死去に先だって私的誓願を許された。1943年12月には桑島神学生が、1944年12月には萱場神学生が入隊し、会は全部の志願者を送り出してしまった。
この頃、修道志願者ではなかったが、ただ1人聖パウロ修道会に留まり、勉学と作業とに励み、戦後にいたるまで神父たちと労苦をともにしたのが、長年にわたり中央出版社に勤務した安藤富士男氏である。
戦災
1945年、前年末より始まった米軍機B29の本土来襲はいよいよ熾烈を極め、3月10日に第一次東京大空襲、5月23日〜25日夜には第二次東京大空襲が行われた。第一次空襲に辛うじて焼け残った聖パウロ修道会の家と、麹町の出版社工場は、25日の大空襲において全く灰燼に帰してしまった。この空襲において、トラポリーニ修道士が軽い負傷をしたほかは、幸い全員無事であった。
住居を失った神父たちは、イエズス会のご好意によって、一時上智大学の大島館に難を避けた。だがいつまでもそこに留まるわけにもいかず、やむなく四方に離散することとなった。聖母病院、ベタニアの家、サレジオ会、井荻の浅野昌一氏が神父たちを温かく迎えてくださった。

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