2人の聖パウロ会員
1934年11月10日、日本に聖パウロ修道会の基礎を築くべく、2人のイタリア人司祭がブリンディジを出港した。32歳のパウロ・マルチェリーノ神父と28歳のロレンツォ・ベルテロ神父であった。
約1か月の旅の後、神戸港に到着し、1934年12月9日の上陸、日本の首都東京に向かい、12月10日に東京に到着した。日本に知人すらいなかった2人は、シャンハイのサレジオ会員が紹介してくれた同会のピアチェンツァ神父を頼った。
東京に着いてまず着手しなければならなかったのは教区内に留まる許可であった。しかし、シャンボン大司教(東京教区)には2人の来日については、何も知らされておらず、当然のことながら許可は得られなかった。
マルチェリーノ神父とベルテロ神父は日本へと旅立つことになりました。
未知の国の人びとに対する期待と不安の中、神戸港、そして東京へ。

日本に修道院を設立せよとの総長の命令と教区長との間の板挟みとなったマルチェリーノ神父たちは解決の糸口が見つかるまで、しばらく静観して大森区(現在の大田区)に家を借りて住み、日本語の習得に努めた。教師には、イタリア語より日本語への翻訳に奉仕してくださった五十嵐仁氏であった。
初期の困難
差し迫った問題は経済的困難であった。神父たちが持参したお金は20日の間に消え去ってしまった。本国からの送金はない。知人もいないこの国でどうして生活を立てようかと考えた。摂理的に、イタリア人の子弟に語学教育を授けることによって、いくらかの謝礼を受け取ることができた。
来日して間もなく、マルチェリーノ神父は、胃潰瘍のため手術を受けなければならなくなった。日本での慣れない食生活や習慣に戸惑ったのであろう。マルチェリーノ神父は、修道院設置の見込みもつかない状況にあって、病床での苦痛を将来の日本の聖パウロ修道会のためにささげた。この大森時代に神父たちを優しく教え導いてくれたのは、パリ外国宣教会のコルニエ神父(当時の大森教会の主任)であった。

大森教会
王子教会
王子教会
1935年の初冬、シャンボン大司教は、神父たちの立場に同情され、大森教会のコルニエ神父のもとで、宣教師の見習いを始める許可を与えた。神父たちの喜びはいかほどであったろう。翌年4月、シャンボン大司教は正式に東京教区内に居留する許可を与えるとともに、王子、赤羽方面(現在の北区)を小教区として担当するように命じた。教会開設の資金を集め、1936年6月19日のイエスのみ心の祭日には、「天主公教会」の看板を掲げるにいたった。当日の祝いには、シャンボン大司教をはじめ、鹿児島教区長ロア神父、本郷教会のウタン神父、大森教会のコルニエ神父が出席するとともに、駐日イタリア大使のアウリティ氏、横浜の大木吉章氏などの恩人が列席した。
出版宣教のめばえ
こうしてマルチェリーノ神父とベルテロ神父は、使徒的活動に入ったが、日本人の生活を見聞するにつれて出版による宣教の必要性をますます感じるようになった。日本は教育がよく普及しており、読書人の多いことは、他の国々に見られないほどであると知ったからである。また有楽町付近の大新聞社や銀座の教文館ビルなどは、特にマルチェリーノ神父の出版による宣教熱を刺激した。
マルチェリーノ神父は日本におけるカトリック出版の状況を知るために、麹町にあった「中央出版部」を訪れたが、当時の責任者は後の田口大阪大司教で、出版による宣教に深い理解を持っていた。



1937年7月、日華事変が勃発したが、神父たちの生活にはあまり影響がなかった。この年の1月2日、インドに派遣されていたパガニーニ神父が来日、1938年1月にはトラポニーニ修道士、同年9月にはボアノ神父、1939年11月にはキエザ神父が来日した。会員数も6名となり、正規の修道院が成立した。
印刷技術の経験者であるトラポニーニ修道士が派遣されてきたのは、マルチェリーノ神父、ベルテロ神父の念願であった印刷所が、ささやかながら教会敷地内に設置されたためであった。
マルチェリーノ神父はこの印刷所を「誠光社」と名づけ、ただちに小教区内の人々を対象とした布教リーフレット『王子教会の声』を発行した。また児童向けの単行本として『面白くて為になる話』、『名もなき島』、『ハンス物語』などが出版されたが、この翻訳の仕事はおもにパガニーニ神父と教会伝道師との協力によるものであった。
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