ナザレトの家
8月15日の終戦とともに、神父たちは再び共同生活に戻るべく奔走した。すでに王子の教会はマルチェリーノ神父の逮捕以来閉鎖されていたし、神父たちはこの時機に、もっぱら修道会本来の使徒職である出版宣教に全力を傾注したいと考えていたので、もはや王子には戻らないこととなった。
幸い、会の来日以来、援助と激励とを与えておられたパリ外国宣教会のフロジャック神父が、中野の「ベタニアの家」のはす向かいにある「ナザレトの家」を提供してくださったので、会員たちは3か月ぶりに兄弟ともに住む喜びを味わうことができた。
早くも8月18日には萱場神学生が、9月1日には桑島神学生が、それぞれの軍務から解かれて帰京し、ようやくもとの顔ぶれも揃ってきた。
しかし、星村神学生はついにフィリピンのルソン島で戦病死し、その遺骨を迎えに行った家族の胸に抱かれた白木の箱には、ただ一枚の名札が入っていただけだった。なお、マニラの聖パウロ修道会の会員の話によれば、同神学生は同地の聖パウロ修道会を訪れ、会員を激励したとのことである。

未来の使徒職へ
終戦までの聖パウロ修道会の出版による宣教は、絶えざる努力が払われていたとはいえ、極めて微々たるものであった。ただ『新約聖書』の重版に見るべきものがあったくらいである。
9月1日、神父たちは出版活動を開始し、マルチェリーノ神父はただちに、『出版布教』と題するリーフレットを各地の教会に送り、出版による宣教の重要性を説き、またこれに対する協力を要請した。
用紙不足の折にもかかわらず、この終戦直後の数か月間に『バラの聖女』、『信心生活入門』など、数点の単行本が出版されたことは、神父たちの意欲を証明している。
1945年11月30日、カトリック教区長会議は、週刊紙『カトリック新聞』、月刊誌『声』について、その編集をそれぞれ、東京、大阪の両教区に委任し、その出版を一時聖パウロ修道会に委ねることとなった。こうして聖パウロ修道会は、出版による宣教をその特殊目的とする、本来の面目を現し始めたのである。来日以来10年にしてマルチェリーノ神父たちの計画は、ようやくその緒についたといえよう。
1946年3月、宗教団体に関する新法令により、聖パウロ修道会も宗教法人として出発した。
復興への道
「日本人による日本人の救い」というのが最初から神父たちが抱いていた理想であった。修道会の事業は、邦人会員を養成することなしには、その目的を達成することが困難である。
こうして1946年4月、パガニーニ神父を修練長として、3名の神学生が邦人として最初の修練に入った。
同年6月、ベルテロ神父がアメリカから帰り、四谷若葉町の焼け跡には修道院の建築が開始され、ようやく復興の空気がみなぎってきた。資材不足の折から、成増の旧兵舎の取り壊しが許可されたので、修練者も職人にまじって働いた。
まもなく9月には南鮮出身の金、長崎県出身の山野の2名の修道士志願者が入会し、11月には宮崎出身の池田が学生として寄宿してきた。
そのころマルチェリーノ神父はローマにおける、修道会の会議に参加するため、また同時に資金の援助要請のために、イタリアに帰国したが、たまたま悪化していた胃潰瘍の再度の手術を受けた。医師たちから、生命は保証できないと宣告された神父は、万一の場合は「自分の心臓は日本の土に埋めてくれ」と遺言した。だが、主は神父にまだなすべき業を残しておられたため、手術後の経過は良好であった。神父はまた、このイタリア滞在中に金山政英氏の援助を得て日本語聖書二万部の重版を行い、これを日本に持ち帰った。



マルチェリーノ神父不在の間、ベルテロ神父がその代理を務め、若葉町に修道院の建築と併行して2階建て印刷所の建築が進められていた。その完成も間近い1947年4月2日、襲来した突風は建物を全壊し、多年神父たちのまかないを務めていた桑島神学生の母(パウラ・マリア桑島カツ)の生命を奪い、トラポリーニ修道士と付近の一少女に傷を負わせた。桑島神学生の母は、マルチェリーノ神父が来日後、最初に教理を教え、洗礼を授けた信徒であった。
工場倒壊は神父たちにとっても大きな打撃であったが、発展途上における試練とも考えられる事故であった。ここにおいて、工場建築の計画は変更され、同地に中央出版社にあてられる建物が作られることとなった。この頃からパガニーニ神父が全面的に出版事業の指導、経営にあたっていた。またこの前後から数年、栗原雪子氏が修道院の家事のために尽力した。
赤坂修道院
マルチェリーノ神父がイタリアより帰ると、1947年、小教区としては沢出神父の麻布教会に属する、赤坂の連隊跡の一角を買い取って、赤坂修道院の建築が始められ、1947年8月20日、修道会の創立記念日には、未完成の小聖堂で、最初のミサがキエザ神父によって捧げられた。9月8日、聖母マリアの誕生の祝日には、数名の会員と志願者が移住した。火薬庫跡を改造した建物で、ガスはもちろん水道も引いていない状態で、不便この上もなく、食糧も極めて乏しかったが、院長キエザ神父をはじめとして、長崎から上京して間もない10名ほどの志願者にいたるまで、困難をよく忍び、熱心に修道生活に励んだ。この頃から三森神学生の母堂がまかないを引き受け、数年の長きにわたって、会員、志願者のために献身された。

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