邦人会員、志願者
1947年(昭和22年)4月には、修練を終えた桑島、萱場、島田の3名が初誓願を立て、最初の邦人会員となった。この頃から志願者もぽつぽつと入会してきた。すでに前年より寄宿していた池田も志願者となり、それに新たに大阪出身の前田、東京出身の三森、ほか数名の志願者が加わって、当時の種々の悪条件にもめげず、ひたすら信心に、勉強に、そしてまた作業に励んだ。
この年会員となった島田神学生は、1年後トラピスト修道会に転じ、間もなく病を得、忍耐の中に病苦を甘受し、秋田の病院において帰天した。
1948年4月には、前田、池田など4名の神学生と、山野、金の2名の修道士志願者が、パガニーニ神父を修練長として、修練期を開始した。
この頃『声』誌が出版布教を重視される田口司教の大阪教区に全面的に委任されたのを折に、かねてから聖パウロ修道会の使徒職に深い関心を寄せておられた岳野慶作氏の協力を得て『家庭の友』が創刊されることとなり(1949年1月創刊)、パガニーニ神父のもとに、修練者たちも編集に参加した。
1948年、会の志願者の養成機関として、聖パウロ学園設立の方針が決まり、1949年3月、財団法人の許可を得た。この間、赤坂に1階印刷実習室、2階教室の校舎を建築し、聖パウロ学園工芸高等学校と名づけた。これが聖パウロ学園高等学校の始めである。

創立者の来日
1949年3月には戦後初めて、イタリアより新たに会員を迎えた。カステロット神父と修道士1名である。
5月に入ると、待望の総長アルベリオーネ神父が、空路羽田に着いた。創立者でもある総長を遠い異郷に迎えることのできた神父たちの喜びは非常なものであった。白髪温顔の小柄な総長は、静かに神父たちの労をねぎらうとともに、邦人会員の養成にいっそう努力するように勧告した。
総長はまた、宣教を強力におし進めるために、日刊新聞の発行の可能性について神父たちの意見を求めたが、当時はすでに放送事業が計画されていたので、その促進のために全力を傾注すべきであるとの結論にいたった。
8月、戦時中来日したことのあるテスティ神父がブラジルを経て、再び派遣されてきて、神父たちは過去の苦しかった出来事を回顧した。
カステロット神父(左)


福岡修道院
修道会の将来を思って、かねてから九州に、志願院を設置する計画があったが、1949年10月、福岡教区内でこれが実現する運びとなり、ベルテロ神父とカステロット神父、山野修道士が派遣された。深堀司教のご好意により、大名町教会に隣接した建物が書店および仮の修道院として使用され、次いで、当時全くの山地であった福岡市小笹町の丘陵を切り開いて、木造平家建の修道院が作られた。山野修道士をはじめ、当時の修道士志願者たちは、開墾、整地に毎日を送らねばならなかった。当時の大名町教会主任の伊東神父が特に聖パウロ修道会を援助された。
福岡修道院は、まもなく本建築の工事を開始したが、国際状勢から予定の資金が集まらず、一時工事中断のやむなきに至った。しかし、会員たちの努力により1954年11月、一応竣工し、以来、志願院として頼もしい活動をした。
当初の計画
建設中の福岡修道院
大名町教会に隣接した書店
中央出版社
1949年8月、中央出版社は若葉町から、交通手段が便利な四谷見付に移転した。だが今回の建物も若葉町のバラックに劣らぬ小屋造りの極めてお粗末なものであった。
この年の3月末まで『カトリック新聞』は、教区連盟(現在の中央協議会)内で、深堀神父、松方氏を中心に編集、発行されてきたが、4月より、再び中央出版社に委任された。
1954年夏に至ってようやく新築工事が開始された中央出版社は、1955年1月には、土井東京大司教をお迎えして祝別の式が行われ、正面入り口の上方には「使徒の女王聖マリア」の御像が置かれ、道行く人びとを優しく見守っていた。
当時、教区連盟の出版部長であったチベサー神父は、聖パウロ修道会の使徒職に深い理解をもたれ、良き忠告と援助とを与えられた。
1949年
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1955年

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