聖パウロ修道会日本管区75年の歩み

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Memo.png放送事業

 戦後も放送事業はNHKの独占事業であったが、1948年の夏、進駐軍総司令官マッカーサーの指令により、民間放送局設置への道が開かれることとなった。
 マスコミの宣教の手段として用いることを特殊目的として掲げている聖パウロ修道会は、これを放送事業開始の好機と見て、直ちに必要な研究を進め、同年12月25日には開局申請書を提出した。
 1949年、聖フランシスコ・ザビエル渡来400年祭にあたり、オーストラリアよりギルロイ枢機卿が来日された時、同枢機卿代理のマクドネル・ニューヨーク副司教によって将来放送局に使用される予定の「聖パウロ会館」(後の文化放送会館)の定礎式が行われ、建築が開始された。
 1950年5月にいたって放送法が国会を通過し、12月にはさらに細則が発令され、民間放送局のあり方が規定されてきた。
 東京における民間放送局申請者は27の多きにのぼったが、そのうちわずか二局が放送免許を与えられることとなった。その一つは新聞社関係を合同した「ラジオ東京」であり、ほかの一つが聖パウロ修道会を中心にその他の宗教、文化関係者が合同した「日本文化放送」であった。すなわち、多数の共願者の調整と、宗教的不偏との理由によって、聖パウロ修道会は他の出願者と合同しなければ、放送免許を得ることができなかったのである。またマルチェリーノ神父は外国人のゆえに、当初の理事に加わることはできなかった。

1952(Bunka hoso Crux)250.jpg文化放送内の十字架

1952(Bunka hoso)255.jpg文化放送

 種々の困難にもかかわらず、好意ある多くの人々との協力と援助とによって、財団法人「日本文化放送協会」は発足し、1952年(昭和27年)3月31日開局し、初代会長には、当初より絶大の協力と援助を惜しまれなかった沢田節蔵氏が就任した。
 その後、理事間の見解の相違や経済問題の混乱などにより、財団法人としての存続が困難となったため、1956年2月、渋沢敬三氏の斡旋により、株式会社「文化放送」が生まれ、聖パウロ修道会はその株主の一員としての関わりを持つだけになった。

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Memo.png女子修道会の来日

 ローマ本部から、「聖パウロ女子修道会」のために適当な住居を準備しておくように通知を受けていたマルチェリーノ神父は、阿佐ヶ谷に適当な家を見つけることができた。かくて1948年8月、マエストラ・イレネを長上とする修道女の一行が来日した。
 同会は聖パウロ修道会総長アルベリオーネ神父の創立によるもので、出版、映画、放送などの使徒職において、聖パウロ修道会と協力する修道会である。この会の発展は各国において目覚ましく、日本でも現在、東京・港区に本部修道院を置くほか、大阪、平塚、福岡、名古屋、神戸、仙台、広島、長崎に修道院を持ち、書院、プロパガンダなどを通して、多くの日本人会員がその現代的使徒職に献身している。
 1950年5月には、師イエズス修道女会のマードレ・イラリアの一行が来日し、しばらく若葉修道院に留まった後、福岡市小笹に修道院を開いた。
 聖体礼拝、典礼と司祭職への奉仕につとめることを特殊目的とするこの修道女会は、やはりアルベリオーネ神父の創立にかかるもので、聖パウロ修道会の使徒職のために、特に霊的方面において協力、援助することをも、その目的としている。
 現在、この会は東京・八王子に本部修道院を置き、四谷、大阪、広島、長崎に支部を持ち、聖パウロ修道会を援助しつつ堅実な歩みを続けている。

195005(Fukuoka PD)1153.jpg師イエズス修道女会

194808(FSP初期の4人の姉妹).JPG聖パウロ女子修道会

 1950年1月25日、教皇使節であったド・フルステンベルグ大司教により、赤坂修道院の小さな聖堂において、桑島神学生の剃髪式と、三森、夫津木ら志願者の着衣式が行われた。
 秋、10月18日、聖ルカの祝日には、マルチェリーノ神父の司祭叙階25周年を祝い、いわゆる銀祝が「文化放送」の第一スタジオを使用して行われた。当日は、すでに福岡修道院の院長として九州に赴いていたベルテロ神父も上京して、パガニーニ神父とともにミサをささげた。
 司祭生活25年、その3分の2を日本にささげたマルチェリーノ神父は、説教において、あまたの危険と困難にもかかわらず、今日まで会と自分とを守ってくれた神の恩恵に感謝するとともに、いっそう日本のために献身する決意を述べたが、自ら感激の涙を禁じ得ず、日頃の弁舌もとだえがちであり、参加者に深い感銘を与えた。
 なおこの年には、第3回目の修練期が、ボアノ神父を修練長として開始され、1951年4月9日には、土井東京大司教の来院を得て、神学生修道士10名の初誓願式が執り行われた。

Memo.png会員の往来

 1951年8月は、以前中国において宣教に従事していたヴァラルド神父とイナコ修道士が来日した。
 聖パウロ修道会はすでに1934年より、初めは漢口に、次いで南京に修道院を持ち、中共軍の治下になっても引き続き宣教活動に努めていた。しかし、次第に宣教師に対する圧迫、迫害が激しくなってきたので、ついに1953年、現地人修道士2名を含む計7名がイタリアに引き揚げねばならなくなった。なお、中国から帰国した会員たちは、ほとんど日本とフィリピンで宣教に活躍し、いつも中国における宣教再開を期待していた。
 この年の末に、福岡修道院の設立に努力したベルテロ神父がイタリアに帰国することになり、アメリカを経てローマへと向かった。後任院長にはカステロット神父が任命された。イタリアに戻ったベルテロ神父は、もっぱら将来の宣教者たる修道志願者教育の任にあたり、また絶えず日本に対する深い愛をもって、日本からイタリアに留学する神学生のために配慮した。
 1952年1月には、ブラジルにいたザッパロルト神父が、ローマ経由で海路来日して、本部修道院に加わり、会員たちにいっそう活気を与えた。
 1952年12月、東京麻布教会において、教皇庁公使ド・フルステンベルグ大司教によって司祭叙階式が行われ、聖パウロ修道会も最初の邦人司祭として、桑島神父を持つことができた。萱場神学生が健康上の理由から、しばらく司祭叙階の喜びを待たねばならなかった。

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Memo.png総長の第2回来日

 1953年4月、総長アルベリオーネ神父が、第2回の日本訪問を行い、4年前に設けられた福岡修道院を初めて巡視し、中学生志願者たちに深い印象を与えた。
 この3月に上智大学哲学科を卒業し、しばらくイタリア語の習得に励んでいた前田、池田両神学生は8月初め、日本人会員、志願者の希望を担い、聖パウロ修道会初の邦人留学生としてローマに向けて神戸を出港した。2人は本部の神学校で神学を修めるかたわら、イタリアにおける聖パウロ修道会の現状、特にその出版使徒職についての認識を深めるために留学したのである。
 また10月には、プラッサ神父をイタリアより迎えたが、同神父は直ちに福岡修道院に所属した。
 1954年4月には、修練を終えた修道士6名の初誓願式が行われ、出版の使徒職のよい働き手の増加を神に感謝した。

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