イタリアに帰った神父たち
マルチェリーノ神父は、放送事業にかかわる繁忙と心労とにより、以前にもまして健康状態も思わしくなくなっていたが、1955年、ローマ本部からの指示により、イタリアに帰国することとなった。
日本の土となるべく決心して帰化までした神父ではあったが、従順を尊ぶ修道者として、いっさいを主のみ旨に委ね、2月、空路ローマへと向かった。
その後マルチェリーノ神父は、健康も次第に回復し、その後、10余の修道院を包括するイタリア管区の管区長の要職にあって、多忙の毎日を送っていた。
総長は、この年の5月(1955年)、3度日本を訪れ、その以前に変わらぬ元気な姿で会員たちに大きな慰めを与えた。
なお、これに先だって4月9日、山野、金の2名の修道士が終生誓願を立てたが、この2人が日本における最初の修道士終生誓願者であった。
また上智大学を卒業した東京出身の三森神学生は、6月、神学課程を修めるために神戸港よりローマに向かい、すでに留学中の前田、池田神学生に加わった。
キエザ神父は、1956年10月、イタリアに帰ることとなった。帰国した神父はヴィチェンツァ修道院に属し、映画事業を担当していたが、開拓者としての資質を買われて、ロンドンに派遣され、もっぱら映画の使徒職を指導し、その後本部所属となり、とくに本部を訪れる海外よりの会員について配慮していた。
終生誓願宣立をした山野修道士と金修道士
前進
1955年、それまで準管区の資格であった日本の聖パウロ修道会は、正式に日本管区となりパガニーニ神父が初代管区長に任命された。
1956年、会はさらにチリオ神父を迎えた。同神父は短期間の東京での生活の後、福岡修道院に派遣された。神父は以前教区司祭であったが、聖パウロ修道会の精神と使徒職に感じて入会、当初から日本での宣教を志願していた。
同年7月、聖パウロ学園関係の会員、志願者を収容する学園会館の建築が開始された。この工事は地下1階地上2階延べ476坪のもので、翌年3月に完了した。
ボアノ神父は赤坂修道院の院長として多年会員の養成に当たっていたが、この年の10月18日、司祭叙階25周年の祝いを迎えた。会員、志願者たちは心から銀祝のこの日を祝い、同神父の健在と活躍とを祈った。
また、1957年3月12日に赤坂修道院も落成した。

赤坂修道院

放送、映画部門
聖パウロ修道会は民間放送事業についての計画の当初から「セント・ポール・ラジオ・センター」を設置し、「日本文化放送協会」が設立された後も、キエザ神父を指導者として、独自の番組制作に努めていた。
その後、株式会社「文化放送」が発足してからはテスティ神父のもとに、番組制作にたずさわってきたが、やがて、長江司教を委員長として、志村、松村、カンドウ、エルリンハーゲン、テスティの各師を実行委員とする「関東地区ラジオ放送委員会」の指導により「文化放送」の電波を通じての「カトリック時間」の制作をも担当した。
キエザ神父

イタリアにおいて聖パウロ修道会は、すでに数本の宗教フィルムを作成していたが、1951年頃、その一つである天然色映画「神の御母」(マーテル・デイ)が日本にも送られてきた。この頃から映画部門における活動が計画され、1956年、キエザ神父が放送部を退いて、映画部を開設し、「セント・ポール・フィルム」と名付けた。その後、キエザ神父のイタリア帰国により、ボアノ神父がこの部門の担当者となり、次第に所有フィルムの本数を増加し、また外国語から日本語への吹き替えなどにも力を注ぎ、健全なフィルムの普及に努めた。
新司祭たち、総会
1957年に日本の聖パウロ修道会は、日本とイタリアにおいて新司祭を持つ大きな喜びを得た。
3月24日、東京麹町のイグナチオ教会において、土井大司教により司祭叙階式が行われ、聖パウロ修道会は萱場神父を2人目の邦人司祭として持つことができた。翌日には、赤坂修道院において新司祭によりミサがささげられ、聖パウロ女子修道会、師イエズス修道女会の会員もこれに参列し、感謝と喜びをともにした。
一方、ローマにおいては7月7日、聖パウロ修道会の使徒の女王大聖堂において、17名の聖パウロ修道会の会員の叙階式が荘厳に行われ、4年前に留学した前田、池田の両会員も、司祭の位にあげられた。当日は鶴岡バチカン公使夫妻をはじめ、在ローマ日本人教会関係者が多数参列し、新司祭と喜びをともにした。
またこの年の4月には聖パウロ修道会第1回総会がローマで開かれることになったので、日本管区からパガニーニ管区長、桑島神父、イナコ修道士の3名が参加することになり、3月空路イタリアに赴いた。総会には各国の聖パウロ修道会代表が参列し、総長選挙においては、アルベリオーネ神父を再選した。
日本管区においては、ローマより帰国する新司祭たちを迎えるにあたり、異動が発表され、赤坂修道院の院長ボアノ神父が四谷修道院の院長兼映画部責任者となり、ヴァラルド神父が赤坂修道院の院長に任命された。長らく福岡修道院の院長であったカステロット神父は赤坂修道院に属することになり、チリオ神父がその後任となった。またザッパロルト神父は中央出版社の書籍主任となり、出版活動をいっそう促進することとなった。
これらの異動の結果、各事業部門はさらに一段の発展を見るにいたった。
1958年3月11日、管区長パガニーニ神父が、その司祭叙階銀祝を迎え、赤坂修道院において、会員、志願者による祝賀が行われた。
4月9日には、かねてからヴァラルド神父のもとに修練に努めていた7名の神学生が、めでたく初誓願を立て、その中の2名は上智大学でスコラ哲学の課程を修めることとなり、他の5名はさらに、聖パウロ学園の専攻科において、ラテン語その他の教養科目を学ぶことになった。
1959年4月、佐賀県出身の中村、長崎県出身の山内、桃田の3名の修道士が終生誓願を立て、自己の聖化と出版使徒職の発展にいっそう献身することとなった。
また、本年より哲学課程を赤坂修道院において修める方針が実現し、4名の神学生がパガニーニ、池田、ヴァラルドの3名の神父の指導を受けることとなった。なお補助学科の講義には、岳野、巽、広瀬の三氏が来講した。
6月には、上智大学卒業後、昨年来もっぱらイタリア語および神学の基礎を学んでいた立石、永谷、百村の3名の神学生が、神学の課程をローマにおいて修めるために、海路イタリアに出発した。3名はともに長崎出身である。
3名の神学生がローマに到着してまもなく、7月5日、本部の使徒の女王大聖堂において恒例の司祭叙階が行われ、21名が司祭に叙階されたが、日本人司祭としては三森神父が誕生した。ローマに着いた3名の神学生はこの叙階式に参列し、また同神父の初ミサに奉仕して、深い感激を覚えた。三森神父を加えて、邦人司祭はようやく5名となった。
一方赤坂ではすでに管区顧問会の決議によって計画されていた、聖パウロ学園高等学校の校舎新築工事が実現することとなり、6月30日その土地の祝別式が行われ、7月下旬より工事が開始された。
萱場神父の司祭叙階
第1回総会
パガニーニ神父司祭叙階25周年
1958年12月20日付けで『希望の丘』第1号が発行された。これは聖パウロ修道会の霊性、生活、召命など、会員たちの育成にも貢献している小冊子である。
1960年3月、建築中の鉄筋3階の聖パウロ学園高等学校の校舎と体育館が竣工し、教育設備も一段と充実された。
4月8日、1名の着衣式と5名の入修練式が行われ、修練長には桑島神父が就任した。翌日には赤坂修道院で牧山忠治修道士が終生誓願を宣立した。
アリッチャでの1か月の黙想から帰ってきたボアノ神父は、アンジェロ・ザッパロルト神父の後を継いで、セント・ポール・ラジオ・センターの責任者となった。このセンターは1951年3月29日にキエザ神父たちが中心となって設立され、1957年からはテスティ神父が3年間責任者となり、ザッパロルト神父が数か月、そのあとを引き継いでいた。このセンターは、聖パウロ女子修道会の協力を得て12年間文化放送などの中波を通して続いた10分間の番組は、1963年から日本短波放送局を通して週15分間放送されることになった。
1961年2月21日、駐日バチカン公使エンリッチ大司教が、中央出版社、赤坂修道院、若葉修道院を訪問した。
3月31日、副総長ルイジ・ザノニ神父が日本管区視察のために来日した。4月9日には東京・赤坂修道院でザノニ神父司式のもとに、谷口不二男神学生らが終生誓願を宣立し、また山口輝男神学生が初誓願を宣立した。なおザノニ神父は4月4日に福岡修道院を訪問し、同月18日に離日した。
5月30日、若葉修道院(東京都新宿区若葉1丁目5番)が落成し、祝別式が行われた。司式は駐日バチカン公使エンリッチ大司教。聖パウロ修道会管区修道院は以前から文化放送会館の5階と6階にあったが、それらを売却し、その資金で新築した。
6月13日、谷口不二男神学生らは、神学の勉強のためローマの本部修道院へ出発した。
11月9日、ローマ本部よりパウロ・マルチェリーノ神父とビンセンチオ・テスティ神父は、韓国に修道院を設立するため派遣されたが、その途中、日本に立ち寄った。
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