1962年
1月15日、赤坂修道院で7名の志願者の着衣式が行われた。司式は管区長のパガニーニ神父。なお、この7名は4月8日から修練期に入った。
1月21日、韓国出身のヨゼフ金修道士は、韓国での聖パウロ修道会設立に協力するため離日した。
1月29日、アンジェロ・カステロット神父はオーストラリアのシドニー修道院の院長に任命され、離日した。
4月、福岡修道院に16名の志願者が入会し、合計35名の志願者となった。
4月9日、赤坂修道院で塚本孝夫神学生が終生誓願を宣立し、同日、伊集院俊紀修道士が初誓願を宣立した。なお塚本神学生は6月14日、神学の勉強のためローマの本部修道院へ出発した。
7月1日、1958年7月以来、ローマで勉強していた立石幸雄助祭と永谷計助祭は、神学課程を終え、ローマの使徒の女王大聖堂で本会の20数名の助祭と共に司祭に叙階された。
10月11日、第二バチカン公会議が教皇ヨハネ23世の召集によって開会された。

1963年
3月7日、聖パウロ会の創立者であり、総長でもあるヤコブ・アルベリオーネ神父がインドの管区長フェッレロ神父を伴って来日した。日本には4度目で、これが最後の訪問となった。3月10日から13日まで福岡修道院を訪問し、志願者たちを励ました。赤坂修道院では3月17日、7名が着衣式を行い、それに合わせて歓迎会を行った。
4月12日、若葉修道院の院長にチリオ神父、赤坂修道院の院長に桑島啓吉神父、福岡修道院の院長にプラッサ神父が就任した。
6月3日、教皇ヨハネ23世が81歳の生涯を閉じた。在位4年7か月であった。第二バチカン公会議の開催、典礼の刷新、キリスト教一致の推進など、目覚しい活躍をなさった。
6月21日、モンティーニ枢機卿が教皇に選出された。「パウロ6世」と命名し、前任者の路線を受け継ぎ、第二バチカン公会議を継続させた。
7月7日、百村等助祭がローマの使徒の女王大聖堂で司祭に叙階された。
9月24日、アンジェロ・ザッパロルト神父の司祭叙階25周年を若葉修道院でお祝いした。同期のテスティ神父もこのお祝いのために韓国から来日した。

1964年
1月4日〜6日、パウロ6世は聖地を訪問した。
4月4日、創立者80歳の誕生日。
4月9日、赤坂修道院で夫津木昇神学生、右田拓磨神学生、山野良一修道士、山口栄修道士が初誓願を宣立した。
6月30日、永富久雄助祭がローマの使徒の女王大聖堂で司祭に叙階された。
9月27日、北イタリアのアルバで聖パウロ修道会創立50周年記念式典が行われ、全世界から20数名の枢機卿・司教(日本からは深堀司教)、政府関係者、パウロ家族の会員たちが多数参加した。
9月28日、第二バチカン公会議の第2会期が開催された。
10月15日、赤坂修道院で創立50周年と来日30周年を合わせてお祝いした。この行事に合わせて「聖パウロ会50年(1914〜1964)のあゆみ」という記念特集アルバムやパンフレットが出版された。この行事に、駐日バチカン公使アンドレア・ディ・モンテゼモロ神父、東京教区司教代理の大越神父、文化放送の沢田節蔵氏、旺文社の赤尾好夫氏など、修道会・宣教会の会員も多数参列した。17日にはパウロ家族合同のミサが赤坂修道院で行われた。司式は管区長のパガニーニ神父。
11月25日、第二バチカン公会議で「マスコミに関する議案」が賛成多数で可決された。

1965年
3月11日、マテオ・プラッサ神父が福岡修道院で心臓麻痺により急死した。40歳の若死でもあり、奉仕の精神にあふれ、多くの人々に慕われた司祭であった。プラッサ神父に死去に伴い、3月19日付けで前田俊郎神父が福岡修道院の院長となった。その年は9名の志願者を迎え、総員25名となった。5月25日に赤坂修道院の印刷工場にオフセット印刷機を設置し、写植製版部門の使徒職が始まった。
6月30日、谷口助祭と他3名が司祭に叙階され、続いて1年間司牧神学の研究のかたわら、哲学、社会学などを勉強することになった。前年6月に叙階された永富神父は8月5日に帰国し、福岡修道院に赴任した。
10月7日、若葉修道院の院長のパウロ・チリオ神父はシドニー修道院の院長として赴任することになったので、その代わりに11月13日、アンジェロ・ザッパロルト神父が若葉修道院の院長に任命された。
12月8日、第二バチカン公会議が閉会した。前年の6月から開始されていた赤坂修道院の新築工事は12月に完成し、その落成式が12月18日に催された。鉄筋4階建ては、聖堂と志願院にあてられたが、別棟に師イエズス修道会の修道院も造られた。
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