パウロ年公開講座 澤田豊成神父講話要旨
キリストがすべてにおいてすべてとなるように──パウロから学ぶ現代日本の福音化
※これは、出席者のために事前に準備された要旨であり、実際に話された内容とは異なるところがあります。
はじめに
わたしは、パウロを保護者とする修道会、メディアによる福音宣教を使命とする修道会である聖パウロ修道会の一司祭。講話依頼の趣旨を、学者としてではなく、このような使命に身をおく修道者としての視点で話をすることと受け止めさせていただいた。
パウロ年に入る前でもあり、個々のテーマよりも、パウロの生き方の根本的姿勢から何を学べるかという大きな枠組みで考えてみたい。パウロの全体像を踏まえたうえで、このパウロ年をとおして、個々のテーマを深めていただければ、と思う。
福音化は神のはたらきであることを、どこまで意識しているか
今回の特別聖年「パウロ年」は、パウロの生誕2000年を記念するもの。「誕生」を祝うことに注目する。誕生は、生まれてくる側は何もできず、すべて神の側のはたらき。だから、神がパウロをこの世に遣わしてくださったこと、パウロをとおして偉大なわざを成し遂げてくださったことを記念し、神に感謝することこそ、パウロ年の第一の務めであろう。
「神のはたらき」という視点は、パウロの生き方にとって特徴的なもの。パウロは、教会の熱心な迫害者であった(使徒言行録8・1-3、9・1-2,13-14、22・4-5、26・9-11、ガラテヤ1・13、フィリピ3・6など)。だれもパウロがキリスト者になるなどとは考えていなかった。しかし、主がパウロに出会い、パウロを捕らえた。使徒言行録を見ると、パウロのその後の活動は、主のはたらきによるもの。故郷タルソスから、パウロを教会の表舞台へ導き出したのはバルナバ(11・25-26)。パウロが宣教旅行へ出発するのは、霊に導かれたアンティオキア教会の按手と派遣による(13・1-3)。異邦人に割礼を義務づけないとの決定も霊の導きと介入による(10・44-48、11・1-18、15・1-21)。その後のパウロの宣教活動も、霊に導かれていることがしばしば記される(16・6、18・9-10、19・11、20・22-23)。
パウロ自身も、ダマスコ途上での出来事を、神のはたらきと理解している。しかも、自分が生まれる前から神がそれを定めてくださったと理解している(ガラテヤ1・15-16、ローマ8・28-30など)。使徒としての使命も神から与えられたものと理解(ローマ1・1、15・15-16など)。さらには、福音の告知とその受容も神のはたらき。「わたしたちから神の言葉を聞いたとき、あなたがたは、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れたのです。事実、それは神の言葉であり、また信じているあなたがたの中に現に働いているものです」(一テサロニケ2・13)。
神の導きにしたがって人がはたらくというのではなく、人をとおして神ご自身がはたらかれる。「わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです」(一コリント15・11)。
この神のはたらきは、キリスト者の中に生きるようになられたキリストのはたらき。キリスト者の中には、神の子の霊が注がれることによって、もはやキリストがその人の中に生き、はたらかれる。「イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたのうちに宿っている」(ローマ8・11)。「神は、『アッバ、父よ』と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった」(ガラテヤ4・6)。「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしのうちに生きておられるのです」(2・20)。
神のはたらきは人間の理解を超えている。だから、神の計画が実現しているとは思えないこともある。しかし、神のわざに対するパウロの確信はゆるがない。「神の賜物と招きとは取り消されないものなのです」(ローマ11・29)。
現代の(だいぶ以前からそうなのかもしれないが)風潮の一つに、人間を超える神のはたらきに重点を置かず、科学的に、あるいは実証的に検証可能なことのみを頼りにする傾向がある。超自然的な存在を否定はしなくとも、あてにはならないので、重要なことに関してはそれを考慮しようとしない。
教会も、この影響を少なからず受けていると思う。福音化は、神のはたらきであるはずだが、視点は「わたしたちは何を行うべきか」となりがちで、「神は何をなしておられるのか」、「何をなそうとしておられるのか」にはなりにくい。そもそも、パウロは「信仰による義認」というとき、これを人間のはたらきとその結果で救いを勝ち得ようとする姿勢と対立させている。パウロの基本姿勢は、救いは人間のはたらきの結果でなく、神の無償の恵みの結果であり、それを全面的に受け入れること、しかも希望が見えない状況でそれを受け入れることによるはず。
キリストの愛に駆り立てられた、わたしたちのはたらき
福音化が神のわざであると言っても、それはわたしたちが何もしないでいいという意味ではない。「では、どうなのか。わたしたちは、律法の下ではなく恵みの下にいるのだから、罪を犯してよいということでしょうか。決してそうではない。知らないのですか。……」(ローマ6・15-)。むしろ、神の恵みとはたらきが大きければ大きいほど、それはわたしたちを駆り立ててやまないはず。
信仰によって、キリストを受け入れる人は、キリストに結ばれ、キリストに生きる者となる。だから、キリストの思いを思いとして生きる(フィリピ2・1-2)。また、キリストを信じることによって、自分の身に起きた神秘のすばらしさに気づいた者は、それを完成するために歩まないではいられない。「わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。……なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです」(フィリピ3・11-14)。「わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう」(ガラテヤ5・25)。「わたしは福音を告げ知らせずにはいられないのです。福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです」(一コリント9・16)。「キリストの愛がわたしたちを駆り立てている」(二コリント5・14)。
パウロは、旧約の伝統にしたがって、神を「呼ぶ」「招く」「召し出す」神と理解。神はご自分だけで人間の救いを実現するのではなく、また人を強制的に従わせたり、おきてに縛りつけるのでもなく、すべての人をその救いのわざに巻き込まれる。ありとあらゆる恵みを注ぎながら、一人ひとりに呼びかけ、彼らがこれにしたがって、積極的にはたらくのを待っておられる。「わたしたちは神のために力を合わせて働く者です」(一コリント3・9)。しかも、パウロの理解では、神はもはやその人の中に生きながら、その人のはたらきを待っておられる。
キリストが信じる者の中に生きてはたらかれる。一方で、信じる者は、キリストのうちにすべてを行う。しかし、それは一方が他方に解消されてしまうことのない神秘的でダイナミックな結びつき。しかも、パウロにとって、それは「キリストのからだ」の中で理解される。自分にすべてを行う務めが与えられているのではなく、一人ひとりに務めが与えられている。そして、どれも不要な務めはない。
キリストのはたらきを、強い促し、招きとして、自分の中に感じているだろうか。しかも、どんな苦難にも負けることのないほどのものになっているだろうか。ここでもキリストとのかかわりの質が問われている。
すべてをキリストのうちに吟味する
キリストとのかかわりは、すべての土台となるもの。しかし、それですべてが解決するわけではない。パウロは、このキリストとのかかわりを個人として、また社会の中で、具体的に生きていくうえで、最初からマニュアルのようなものを持っていたわけではない。それは、福音をどのように告げ知らせればよいかについても同じ。常に、キリストの神秘に照らし合わせながら、答えを模索していく。聖書や教会の伝承にも基づきながら……。パウロの手紙は、その具体例と言ってよい。「ひたすらキリストの生活にふさわしい生活を送りなさい」(フィリピ1・27)。
パウロは、異邦人に福音を伝えていく。文化的、思想的相違は、当初、それほど大きなものに感じられなくとも、実際に福音が受容され、それに基づく生活が営まれるにしたがって、顕在化していく。食事、からだ、結婚、復活、労働、奴隷制など、福音に深く結びつく問題もあったろう。
パウロの視点は、単にそれが良いか悪いかにあるのではない。それがキリストにおいて示された神の望みに合っているかどうか、それによってキリストの全面性が否定されることがないかを探っていく。しかも徹底して。もちろん、パウロにも不十分な点はあったが……。「すべてを吟味しなさい」(一テサロニケ5・21)。「何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい」(ローマ12・2)。「『すべてのことが許されている。』しかし、すべてのことが益になるわけではない。『すべてのことが許されている。』しかし、すべてのことがわたしたちを造り上げるわけではない」(一コリント10・23)。
その典型的な例が、「律法」の問題。律法それ自体は、聖なるもの、良いもの(ローマ7・12)だが、それを救いのための不可欠な条件とすることを、パウロは決して認めない。キリストへの信仰が救いのすべてではなくなってしまうから。
キリストを生きようとするなら、今日の日本社会にあるさまざまな側面をキリストのうちに吟味する必要がある。最初から否定することはない。しかし、良いもの、許されているものであっても、キリストによる救いを否定してしまうものもあることに注意しなければならない。キリストの神秘を実生活の中でどのように当てはめていくかという姿勢は、少なくとも日本のカトリック教会の中では、まだまだ未成熟のように思う。
最後に、「福音化」について一言。これをどのような意味で理解するか。キリストによる救いという福音の告知・浸透としてか、福音から生じる「福音的諸価値」の浸透としてか。それは、アプローチだけの違いなのか。特に、アジアの教会では、信仰を共有しない人々とともに力を合わせて、普遍的な諸価値(わたしたちにとっては、それが「福音的」であるかぎりにおいて)を社会に浸透させることに重点が置かれている。ここでは時間の都合でこの議論を展開することはできないが(この議論については、M・シーゲル著『福音と現代──宣教学の視点から[第一巻]諸宗教と諸文化圏とのさまざまな出会い』2005年、サンパウロ刊を参考にするとよい)、パウロにとって、「福音的諸価値」の浸透だけを念頭に置いた(とりあえずではあっても)福音化はありえない。たしかに、パウロは相手によって宣教の方法を大きく変えているが、一方でキリストの十字架と復活はゆるぎないものであり、キリストによる救いを覆い隠す宣教は認められない。この2つの点を調和をもって両立できるような宣教スタイルを、今日の日本において、模索する必要があろう。
2008年6月6日(金) 於:麹町教会
聖パウロ修道会 澤田豊成神父
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