第2回:十字架にかけられたイエス
【聖書参考個所】
ローマ3・21-26、4・17b-25、5・6-11、6・3-11、一コリント1・18-25、
ガラテヤ3・1-14、6・14、フィリピ2・1-11など
わたしたちは、パウロの出発点に、あのダマスコ途上での神秘的な体験があることを見ました。そして、パウロだけでなく、多くのキリスト者──その系譜に聖パウロ修道会の創立者アルベリオーネ神父もいるのですが──の歩みに、似たような体験があることを見ました。それは「神秘的」であるがために、説明の難しい体験です。そこで今回は、パウロ自身の言葉を追いながら、この体験をパウロがどのように受け止めたのかについて、特に十字架にかけられたイエスという視点を中心に考えてみましょう。
この体験をする前のパウロは、教会を迫害していました。しかも、「徹底的に神の教会を迫害し、滅ぼそうとしていました」(ガラテヤ1・13)。それは、教会が、十字架にかけられて殺されたイエスを神の子として宣べ伝えていたからです。律法を信じるパウロにとって、十字架は罪の結果であり、「神の呪い」以外の何ものでもありませんでした。
この点については、ガラテヤ3・1-14で、パウロが旧約聖書から引用している2つの個所が参考になるでしょう。まず、申命記27・26。「律法の書に書かれているすべての事を絶えず守らない者は皆、呪われている」(10節)。そして、申命記21・23。「木にかけられた者は皆呪われている」(13節)。申命記21・22-23に出てくる「死体を木にかける」という行為は、律法に対して重大な罪を犯した者が死刑に処せられた後、さらし者にされることで、ローマの刑罰である十字架刑とは異なるのですが、律法に対する重大な罪の結果として、パウロは結びつけているのでしょう。律法を守らない者は、呪われている。だから、律法上、重大な犯罪を犯した「木にかけられた者」、「十字架にかけられた者」は呪われているということです。十字架は、ユダヤ人にとって、神の呪いのしるしであり、「つまずかせるもの」(一コリント1・23)だったのです。
ですから、パウロにとって、このイエスが神の子であろうはずはなく、復活するはずもありませんでした。神から呪われた者が、神から復活させられるはずはありません。にもかかわらず、キリスト者はこの呪われた者を神の子と宣言しました。そこでパウロは、彼らが律法をないがしろにし、神を冒とくする者と判断したのです。
ところが、ダマスコ途上で、この呪われて死んだはずのイエスが、復活して生きている者として、パウロに現れました。パウロは、これまでの自分の考え方を否定せざるをえませんでした。イエスが生きているのであれば、それは神から復活させられたのであり、だから神から呪われた者であるはずがありません。パウロにとって、イエスは、神から呪われた者ではなく、みずから「わたしたちのために呪いとなった」(ガラテヤ3・13)方となります。十字架は、罪の結果ではなく、逆に神の望みに対する従順の最高の表現となります(フィリピ2・8参照)。「神がこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさった」(ローマ3・25)のです。人は、「御子の死によって神と和解させていただいた」(5・10)のです。
大きな、そして根本的な転換でした。しかし、パウロは、このイエスの死について、さらに深めていきます。単なるイエスの側からの贖罪的な行為としてだけではなく、わたしたち人間も復活に至るために通らなければならないこととして理解していくのです。イエスがわたしたちのために死んでくださったので、わたしたちもこのイエスの死にあずかることによって、生きるようになるということです。「あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう」(ローマ6・3-5)。
こうして、十字架にかけられたイエスの神秘は、パウロ自身の生き方や、パウロの宣教にとっても中心的なものとなります。パウロは、「十字架につけられたキリストを宣べ伝え」(一コリント1・23)る者、いや「十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決め」(2・2)た者、「わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはならない」(ガラテヤ6・14)者にまでなるのです。
以上を図式的にまとめると、パウロの変化を次のように描写することができるでしょう。イエスの十字架を否定する者から、イエスの十字架を受け入れる者へ。単にイエスの十字架を受け入れる者から、イエスの十字架に神の救いの計画(罪からの解放、和解)を見いだす者へ。そして、この救いにあずかるためにイエスとともに十字架にかけられる者へ。さらには、十字架にかけられたイエスをすべての人に告げ知らせ、彼らをもこの十字架にあずからせる者へ。パウロの十字架理解は、このように豊かな広がりを持っています。
さて、パウロ家族の創立者アルベリオーネ神父は、イエスの十字架の神秘、あるいは苦しみと死の神秘について、どのように言っているでしょうか。彼は、パウロ家族に固有の霊的成長の方法を示すにあたって、次のような考えを提示しています。
イエスの死は、罪を滅ぼしました(イエスの死と結びつけて、「罪に死を与えた」という表現をしています)。イエスによる罪の償いは完全なものでした。
「1.〔いのちであるイエスは〕罪に死を与えました。
原初の罪は、魂から恵みを失わせました。これは魂のいのちです。イエスは、人間のために支払い、恵みを取り戻し、したがって再び魂にいのちを与えました。こうして、個々の罪に落ちていた人間のために、いのちを取り戻しました。
2. ところで、イエス・キリストの償いは完全でした。すなわち、あらゆる時代の人々、あらゆる場所の人々のために。4つの必要性、つまり知識、十全性、被ることのないこと、不死に関して、それぞれのしかたで。〔その償いは〕あふれるほど豊か。『copiosa apud Deum redmptio(神のもとで、あがないは豊か)』(訳注:詩編130・7)。『Superabundavit gratia(恵みはなおいっそう満ちあふれました)』(訳注:ローマ5・20)。かぎりないもの。というのも、イエス・キリストの行いのすべてには、かぎりない価値があるからです。
3. a)だからこそ、神はたくさんのわたしの罪を耐えてくださいます。b)だからこそ、主の恵みは教会においてこれほど広大なのです。聖体拝領、免償、多くの回心、7の70倍に至るまでのゆるし」(DF pp. 56-57)。
だから、このイエスの十字架の神秘にあずかる必要があります。イエスはすべてにおいて苦しまれたので、その効果もこれにあずかる人の全体に及ぶのです。
「受難。聖なる十字架の王道。
すべてにおいてイエスは苦しみを受けられました。人間として、預言者として、聖性として、救い主として、王として、など。天の王道。
受難の歩み。あらゆる傷をいやすために。すなわち、傲慢、吝嗇、肉欲、など。
〔その受難の〕効果:〔その受難への〕参与。人の心において、感性において、のどにおいて、知性において、手において、など。償いと犠牲の生活において。『adempleo in corporeo meo quae desunt passionum Christi(わたしは、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています)』(訳注:コロサイ1・24)」(DF p. 54)。
わたしたちの霊的歩みは、神の栄光と人々の救いだけを目指すものでなければなりません。しかし、それに反対する「わたし」があります。十字架は、この歩みを生き抜くための大きな模範です。
「戦いは、常に神対わたし。ルシフェルのように、神と並んで座りたがる『わたし』。自身の意志に基づく『わたし』、自分を頼りにしている『わたし』、自分自身を目標として目指すようにさせる『わたし』。わたしたちは、神に帰属し、神を頼り、神を目指さなければならないというのに。
わたしたちの主イエス・キリストは御父だけを目指されました。自らの栄光を目指されたのではありません。実際に、そのはたらきをとおして、多くの辱めに遭いに行かれました。十字架という辱めに至るまでです。一生は、『Gloria in excelsis Deo(いと高きところには神に栄光)』についての論文として始まり、死の前で頭を垂れることをもって終わります。『Ego non quaero gloriam meam(わたしは、自分の栄光は求めていない)』(訳注:ヨハネ8・50)。『Pater, clarifica teipsum(父よ、あなたご自身を現してください)』(訳注:ヨハネ12・28参照)。『quaero gloriam eius qui misit me(わたしは、わたしをお遣わしになった方の栄光を求めている)』(訳注:ヨハネ5・30参照)」(DF pp. 45-46)。
さて、わたしたちはパウロに倣う者として、十字架にかけられたイエスをどのように理解し、どのように生きているでしょうか。十字架のイエスを生きるパウロの生き方をどこまで自分のものとしているでしょうか。
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