第3回:キリストがわたしの内に生きておられる!
【聖書参考個所】
ローマ8・9-11、一コリント6・12-20、二コリント3・4-18、
ガラテヤ2・15-21、一テサロニケ2・13など
前回は、十字架にかけられて死んだイエスについて、パウロの理解がどのように変わっていったかを見ました。しかし、パウロがダマスコ途上で体験し、理解したのは、死んで復活されたイエスについてだけではありませんでした。
パウロは、たしかにあの体験の中で、復活して生きておられるイエスに出会い、その啓示を受けました。しかし、パウロにとって、それは旧約のさまざまな預言者が体験したこととは根本的に異なるものとして理解されました。パウロは、復活のキリストを「見」、その言葉を「聞いた」のですが、単に外から神の言葉を受けたり、神の力に導かれたりしただけではなく、霊においてキリストが自分の中に入ってこられたこと、そして自分の中にとどまってはたらいておられることを感じ取ったのです。
パウロは、今や「キリストがわたしの内に生きておられる」(ガラテヤ2・20)と言います。また、「神の霊があなたがたの内に宿っている」(ローマ8・9)とも言います(すぐ後の10節では、「キリストがあなたがたの内におられるならば……」とあります)。そして、「イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう」(8・11)と述べ、その確信を表明するのです。
「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなって」(3・23)いました。しかし、神は、この罪人である人類をイエス・キリストの死と復活によって無償で義としてくださいました(3・24)。だから、個々人のレベルでは、この神の神秘を信じ、イエス・キリストを信じることによって、キリストがわたしたちの中に入ってこられ、はたらかれるようになります。そして、わたしたちの中ではたらかれるキリストのゆえに、わたしたちは神から正しい者と認められるのです。
この点は、パウロがユダヤ主義的キリスト者の主張(キリスト者となるためには、割礼を受け、律法を遵守しなければならない)に対して、律法の行いによっては義とされないことを論証するためにも用いられます。律法は、本来、聖なるものであり、正しく、善いものです(ローマ7・12)。しかし、人間はそれをどれほど評価し、実践しようと望んでも、自分自身の弱さから律法を守ることはできません。だから、「律法によっては罪の自覚しか生じないのです」(3・20)。パウロは、「律法が『むさぼるな』と言わなかったら、わたしはむさぼりを知らなかったでしょう」と例示し、「律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったでしょう」とまで言っています(7・7)。
ところが、キリストを信じることにより、その人の中にキリストが霊的に生きるようになります。そして、この「内に生きておられるキリスト」が、すべてを行ってくださるのです。わたしたち人間の力では、どんなに努力しても神の前で正しい者とされることはなかったにもかかわらず、わたしたちの内に生きておられるキリストのゆえにすべてが成し遂げられ、わたしたちは神の前で正しい者とされるのです。
パウロ家族の創立者である福者ヤコブ・アルベリオーネ神父は、この「キリストがわたしの内に生きておられる」というパウロの理解と生き方を非常に重視しています。彼にとっては、師であるキリストがわたしたち一人ひとりの中でどれだけ全面的に生き、はたらかれるかが問題なのです。わたしたちの霊的歩みは、そのための「協力」として理解されます。キリストがわたしたちの中ではたらかれるのを、妨げることなく、どれだけ促すことができるか。そのために、キリストの教えを学び、真理であるキリストがわたしたちの中ではたらいてくださるようにします。キリストの生涯の諸段階を特徴づける徳を思いめぐらし、これに倣う生き方をすることによって、道であるキリストがわたしたちの中ではたらいてくださるようにします。祈りや秘跡をとおして、キリストの恵みを受け入れ、キリストと一致することによって、いのちであるキリストがわたしたちの中ではたらいてくださるようにします。福者ヤコブ・アルベリオーネ神父は、この歩みを全面的に実現した模範として、パウロを見ています。
福者ヤコブ・アルベリオーネ神父は、このようなパウロ家族的歩みの方法を『Donec formetur Christus in vobis(キリストがあなたがたの内に形づくられるまで)』(ガラテヤ4・19)と題して提示しました。その中心部分にあたる第2段階の結びとして、彼はパウロを取り上げ、次のように記しています。
「パウロは、旧約聖書と新約聖書の啓示の中に散りばめられている箇所から出発して、イエス・キリストに教えられ、一節ごとに聖霊の照らしを受けて、教えの総体を形づくり、これを『自分の福音』と呼びました。それは、教義の上でも、倫理の上でも、典礼の上でも、今わたしたちが生きているものです。いやむしろ、教会が生きているものと言ったほうがよいでしょう。パウロは、聖師の最も全面的で、忠実な解釈者であったので、福音全体、および現実に適用されたものとしての福音を理解し、見事な要約と厳密な論理づけのうちにこれを論述しました。こうして、異教の人類は無意識のうちに探し求めていたものを発見したのです。それは、すなわち以下のようなものです。
そのまなざしは、原初の堕罪の奥深くに分け入りました。その中に肉となった人間を見いだしました。その肢体に法を義務づけ、死の実を生み出させる罪。ほとんどの場合に、奴隷の状態から自由になることに弱く、義に達する能力がまったくない意志は、神の高みに上げられます。事実、義とは、自然法や自然徳に限定されるものではなく、イエス・キリストの神としての聖性そのものであり、これが聖霊によってわたしたちの霊に与えられ、神の意志へのわたしたちの意志の一致を成し遂げるのです。では、永遠の義とのこの交わりはどこから来るのでしょうか。信仰から、すなわち聖パウロがローマの信徒への手紙の中で描いているように、超自然的力を持つものとしての信仰からです。信仰は、愛をとおしてはたらきながら、聖性、すなわち神的いのちが受肉しているイエス・キリストにわたしたちを一致させます。信仰はそれ以上のことを行います。イエス・キリストの霊によって生かされた新しい存在をわたしたちの中に造り出すのです。この世でイエス・キリストのうちに一致し、その中に深く沈められたわたしたちは、イエスのなさったことを行うことができ、また行うのです。わたしたちは、霊的いのちに新たに生まれるため、イエスの内に肉と罪に死にます。もっと正確に言えば、わたしたちの中に、キリストだけが生き、考え、愛し、望み、祈り、苦しみ、死に、復活なさるのです。新たに生み出された人類の頭として、イエスは信じる者すべてによって一つの神秘体を形づくります。その肢体は、一つの同じいのちを生かす愛によって、固く一致しています。このいのちの中では、ただ一つの心、すなわちイエス・キリストの心だけが鼓動しています」(DF pp. 63-64、邦訳168-170)。
福者ヤコブ・アルベリオーネ神父は、パウロが到達したこの状態を、イタリア語の「conformazione」という言葉で表しています。同じ「forma(=型、形相)」を共有するという意味です。「forma」とは、キリストをキリストたらしめるものと言うことができるでしょうか。前教皇ヨハネ・パウロ2世は使徒的書簡『おとめマリアのロザリオ』で、これを「キリスト教的霊性の不可欠の特徴」、「キリスト教的生活の真のプログラム」と呼んでいます(以下は私訳です)。
「キリスト教的霊性は、弟子が常により十全的な形でその師に一致する(イタリア語conformarsi)よう取り組み続けることを、その不可欠の特徴としています(ローマ8・29、フィリピ3・10、12参照)」(『おとめマリアのロザリオ』15)。
「一つのことが明らかです。すなわち、繰り返し唱えられる『聖母マリアへの祈り』が直接にはマリアに向けて唱えられるとしても、マリアとともに、マリアによって、愛の行為は最終的にはイエスに向かうということです。この繰り返しは、キリスト教的生活の真の『プログラム』である、絶えることのないより全面的なキリストとの一致(イタリア語conformazione)への望みによって養われます。聖パウロはこのプログラムについて、熱烈なことばでこう述べています。『わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです』(フィリピ1・21)。またこうも述べています。『生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです』(ガラテヤ2・20)。ロザリオは、わたしたちが聖性という目標に至るまでこのキリストとの一致(イタリア語conformazione)のうちに成長するのを助けてくれるのです」(『おとめマリアのロザリオ』26)。
ヨハネ・パウロ2世の教えに励まされながら、わたしたちもキリストとのこのダイナミックなかかわりを、パウロ的な方法で意識し、深めていくことができるように努めたいと思います。
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