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第4回:刻まれた神秘の意味を求めて

【聖書参考個所】
ローマ1・1-7、ガラテヤ1・1-5,11-17、フィリピ3・5-11、
ローマ15・14-15a、一コリント1・26-31など
 
 わたしたちは、これまで、パウロがダマスコ途上での体験でどのように変えられていったか(あるいは、どのように変えられていったと彼が感じたか)を、パウロの手紙を中心に見てきました。この体験が、パウロの歩みにとって決定的な価値を持つものであったこと、またパウロがそこで復活のキリストと出会い、その啓示を受け、特別なことを感じ取ったことは確かでしょう。しかし、わたしたちが考察してきたパウロの手紙は、彼の思想的成熟期に書かれたものです。はたして、パウロはこれらすべてをあの体験のときに理解したのでしょうか。おそらく、そうではないでしょう。神は、人間の歩みの中でさまざまな形ではたらきかけてくださいますが、わたしたち人間はしばしば神のはたらきかけにすぐに気づくことができませんし、その意味するところをその場で理解することはできません。まして、あのダマスコ途上での体験のように、神が特別なかたちで介入されるとき、つまり神の神秘が凝縮された体験のときは、なおのことです。手紙の中に記されているパウロの深い神秘理解は、みずからの体験を単なる一つの出来事として放置することをせず、絶えずその意味をたずね求めていった歩みの結果なのです。

 たとえば、パウロはガラテヤの教会にあてた手紙の中で、ダマスコ途上での体験を描写しながら、「わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神が、御心のままに、御子をわたしに示して、その福音を異邦人に告げるようにされたとき……」(ガラテヤ1・15-16)と回想しています。パウロは、あのとき、はじめてキリストに出会い、自分に対する神の呼びかけを感じ取ったのですが、この体験を何度も思い起こし、深めることによって、神の側からの選び、呼びかけは、そのはるか以前から、自分が「母の胎内にあるときから」なされていたということに気づいていきます。つまり、神は、パウロが教会を迫害していたときも含めて、永遠からパウロに呼びかけておられたということに、パウロは気づくのです。

 使徒言行録によれば、パウロは、この体験の後、すぐにダマスコでキリストを宣べ伝えます(使徒言行録9・19-22、ただし、ガラテヤ1・17では、アラビアに退いてから、ダマスコに行っています)。その後、エルサレムでも力強くキリストを告げ知らせます(使徒言行録9・26-29)。しかし、どちらもユダヤ人たちが彼を殺そうとねらったため、パウロは結局、生まれ故郷のタルソスへと逃れなければなりませんでした(9・30)。数年後、バルナバに連れられて、アンティオキアの教会へ行く(13・25-26)までの間のパウロの動向について、使徒言行録は何も語っていません。想像するほかありませんが、おそらく、パウロは、体験したことがあまりにすばらしかったため、すぐにキリストを宣べ伝えたくなったのでしょう。しかし、パウロは有頂天になっていて、周りが見えなくなっていたようです。また、体験したことの意味も、キリストの神秘の深みもよく理解しないまま、善かれと思って、一心に福音を告げ始めたのかもしれません。神の望みを深く見つめ、それを実現しようとするのではなく、自分の思いを実行しようとしてしまったのかもしれません。いずれにしても、神は、パウロが表舞台から退いて、自分が体験したことの意味を深めることを望まれたのでしょう。この期間は、パウロにとって、自分の体験を繰り返し思い起こし、神秘の意味をたずね求める絶好の機会となったはずです(もちろん、パウロの深めは、その後もずっと続くのですが)。

 パウロがたどった歩みは、自分が体験したことを、常に想起しなおし、神の視点から見つめていくというものです。単なる人間の体験としてではなく、神がかかわり、介入し、深い意味を刻んでくださる体験として、この目に見えない部分を少しずつ感じ取っていく歩みです。イスラエルの民は、このような歩みを行うことによって、ともに歩んでくださる主の存在とそのわざに触れ、主が啓示してくださることを読み取っていきました。たとえば、エジプトからの解放とそれに続く出来事を彼らは毎年思い起こしながら、その中に現れた神のわざとその意味を深めていきました。マリアも、神の子イエス・キリストの神秘に直接巻き込まれる中で、さまざまな出来事に「戸惑い」(ルカ1・29)、「驚き」(2・33、48)、「理解ができず」(2・50)にいましたが、「これらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らし」(2・19、51)ました。弟子たちは、復活のキリストに出会った後、あらためてキリストとともに過ごした日々を思い起こすことによって、キリストの深い神秘に気づき、これに対する理解を深めていきました。教会は、キリストの言葉に基づいて、主の晩さんを繰り返し、記念し、想起することによって、過越の神秘の意味を深めてきました。

 わたしたち信仰者にとって、歴史は単なる人間の行為の連鎖ではありません。それは、神が導いてくださるものであり、歴史の中心にはキリストがおられるのです。「キリストは、きのう、きょう、永遠」(ヘブライ13・8参照)という大聖年のテーマも、この意味で用いられました。これまで人間とともに歩み、歴史を導いてくださった神は、今も、そして永遠に変わることなくわたしたちを導き続けてくださいます。だから、わたしたちは歴史を想起しながら、そこに神の刻んでくださった意味を学ぶよう招かれています。同時に、歴史を導かれる神の望みに気づかずに、これに反することを行ってしまったわたしたちの罪についても思い起こし、率直にこれを認めるよう招かれています。大聖年のときになされた、教皇による「教会の子ら」の罪の告白とゆるしの願いは、まさにこのコンテキストでなされました。同時期に、教皇庁国際神学委員会は文書『記憶と和解──教会と過去の種々の過失』(日本語訳、カトリック中央協議会、2002年)を発表しました。毎年行われている上智大学神学部夏期神学講習会の2000年にのテーマはこの動きを受けて決められ、その講演集が『想起そして連帯──終末と歴史の神学』(サンパウロ、2002年)と題して出版されました。前教皇ヨハネ・パウロ2世は、公文書のほかに、いくつかの自伝的書物を著していますが、そこには、みずからの人生の歩みを神が導いてくださった歩みとしてとらえ、その意味を深めようとしてきた教皇自身の姿勢が現れています(たとえば、『立ちなさい、さあ行こう』日本語訳、サンパウロ、2006年)。

 パウロ家族の創立者ヤコブ・アルベリオーネ神父も同様の歩みを行いました。この福者の最も重要な著作の一つにAbundantes Divitiae gratiae suae(以下、ADと記す)という書物があります。これは、パウロ家族創立40周年(1954年)の際に、記念誌を準備していた聖パウロ修道会の修道者たちの求めにこたえて、自分自身とパウロ家族の歩みについて記されたものです。しかし、この本は、単に創立者の生涯やパウロ家族の歩みを、「歴史的記録」として客観的に記述したものではありません。それは、創立者がこれらの歩みを、神がともにいて導いてくださった歩み、「救いの歴史」として、深く見つめなおし続けることによって理解したことがらを記したものなのです。このことは、ADのさまざまな個所から明らかですが、ここでは、ADの最初に置かれた言葉、導入部分の言葉を引用したいと思います。

 「もし、彼があなたがたに譲歩してその願いに応じるために、自分がまだ記憶にとどめており、あなたがたがパウロ家族にとって有益であると考えていることを物語ろうとするなら、二重の歴史を語らなければならないだろう。それは、神の憐れみの歴史であり、『Gloria in excelsis Deo et in terra pax hominibus(天のいと高きところには神に栄光、地には善意の人に平和あれ)』(訳注:栄光の賛歌)と歌うためのものである。

 さらにそれは、度を超えた神の愛にふさわしくこたえなかった、すべてをいやしめる歴史であり、だから『pro innumerabilibus negligentiis, peccatis et offensionibus(数えきれないほど多くの怠り、罪、そむきのゆえに)』、新しい、そして痛ましい『Miserere』(訳注:詩編50)を作ること。

 この第二の歴史について、彼は、それをひとこまずつ考察しながら、毎日、イエスとの会話のうちに、そのさまざまな場面を黙想しては、涙を流している。マリアと聖パウロの取り次ぎによって、その完全なゆるしを希望しながら」(AD 1)。

 このように、創立者はパウロ家族の歴史を「二重の歴史」(神の憐れみの歴史と人間の罪の歴史)の視点から何度も黙想し、イエスと語り合いながらその意味をたずね求め、ADの中に記したのです。

 わたしたちは、パウロのダマスコ途上で体験したようなすばらしい出来事が自分にも起これば、何かが大きく変わるだろうにと考えてしまうことがあります。確かに、それはパウロだけに与えられた特別な体験だったのかもしれません。しかし、神の側からの特別なはたらきかけは、程度の差こそあれ、わたしたち一人ひとりにも与えられているのです。目には見えないかもしれませんが、それはすべて特別な神のはたらきかけであり、言い尽くしえない神の恵みが注がれる出来事なのです。それなのに、わたしたちはほとんどの場合、このように神が特別に介入してくださる出来事をあまり思い起こそうとはしません。そこでなされた神のはたらきと恵みについて、具体的に考え、深めようとはしません。そこで実現した神秘の意味を、神の視点からたずね求めようとはしないのです。だから、パウロにとって、あのダマスコ途上での体験が特別なものとなったようには、これらの体験が特別なもの、力を持つものとは感じられないのです。しかし、ある出来事に特別な意味を与えるのは、神の側からのはたらきかけだけではなく、それを体験した人自身の歩みでもあるのです。

 パウロは、ほかのキリスト者も彼にならってこの歩みをするよう招きます。たとえば、コリントの信徒たちに対して、「あなたがたが召されたときのことを思い起こしてみなさい」(一コリント1・26)と述べています。キリスト者として呼ばれたときの体験を思い起こすことによって、小さい人々を選ばれる神の神秘を理解するよう招いているのです。さて、わたしたちは自分の体験したいくつかの「特別な出来事」にどのように向き合いながら生きているでしょうか。