第5回:み心の識別のために 指導者に耳を傾ける
【聖書参考個所】
ガラテヤ2・1-10、使徒言行録9・10-19、22・12-16、15・1-35など
ダマスコ途上での出来事は、神がキリストにおいてパウロだけにはたらきかけられたパーソナルで神秘的な出来事であること、そしてパウロもこれを特別な出来事と受け止め、そこで体験したことを何度も思い起こし、神がそこにしるしてくださった神秘の意味をたえず深めていったことを、わたしたちは見ました。たしかに、それは神との間のパーソナルな体験であるがために、体験したパウロ自身が深めないかぎり、その意味は明らかになりません。しかし、神のはたらきかけは、見えないものであり、神秘的なものです。理解したことがほんとうに神からのものであるかどうかは、自明ではありません。体験した人の思い込みである場合もあるのです。パウロは、すべてを自分ひとりで理解し、だれの力も借りなかったかのでしょうか。そうではないようです。
ガラテヤ2・2で、パウロは「わたしは、自分が異邦人に宣べ伝えている福音について、人々に、とりわけ、おもだった人たちには個人的に話して、自分は無駄に走っているのではないか、あるいは走ったのではないかと意見を求めました」と述べています。そして、9-10節で、「彼らはわたしに与えられた恵みを認め、ヤコブとケファとヨハネ、つまり柱と目されるおもだった人たちは、わたしとバルナバに一致のしるしとして右手を差し出しました。……わたしたちが貧しい人たちのことを忘れないようにとのことでしたが、これは、ちょうどわたしも心がけてきたことです」と続けています。パウロは、自分が理解した異邦人の使徒としての使命や、自分が宣べ伝えていた福音について、(おそらく論争が起こったためもあり、)教会の指導者たちに確認を求め、承認されたのです。
そもそも、ガラテヤの信徒への手紙のこの個所は、パウロ自身が告げ知らせていた福音を弁護するために記されています。ガラテヤの教会は、パウロを通して福音を受け入れましたが、後から来た、おそらくユダヤ主義的キリスト者の主張──キリストによる救いのためには、割礼を受けることが必要とする主張──をも受け入れたようです。パウロにとって、これは「キリストの福音を覆す」(1・7)ことを意味していました。そこで、パウロは、自分が告げ知らせた福音が「人によるものではない」(1・11)こと、「人から受けたのでも教えられたのでもなく、イエス・キリストの啓示によって知らされた」(1・12)ことを明確にするために、自分の歩みについて語るのです。
実際に、パウロはこの点を繰り返し記しています。「わたしより先に使徒として召された人たちのもとに行くこともせず」(1・17)、「ほかの使徒にはだれにも会わず」(1・19)、「キリストに結ばれているユダヤの諸教会の人々とは、顔見知りではありませんでした」(1・22)。「おもだった人たちからも強制されませんでした」(2・6)。「そのおもだった人たちは、わたしにどんな義務も負わせませんでした」(同)。
しかし、だからこそなおさら、この文脈でパウロが「おもだった人たち」の承認を受けたことを記している事実は大きな意味をもっているのです。パウロの「福音」を公的に承認したのがエルサレム教会の指導者たちであるなら、結局のところ、パウロは彼らの下にあるとも受け取られかねないからです。
パウロは、「福音」を神からの直接の啓示として受けたことを確信していますが、この「福音」が重要なものであるからこそ、それが単なるパウロの思い込みや思い違いではなく、ほんとうに神からのものであることを、神から権威を与えられた人々に相談して、識別しようとしたのでしょう。使徒言行録は、パウロがキリスト者、宣教者として成熟するうえで、多くの人の助けを受けたことを具体的に述べています(アナニアについて使徒言行録9・17-18、22・10、12-16、バルナバについて11・25-26、アンティオキア教会について13・1-3を参照)。パウロ家族の創立者ヤコブ・アルベリオーネ神父は、パウロのこのような姿勢と教会の伝統的な教えとを重ね合わせて、次のように述べています。
「聖パウロは、非常に強い性格の持ち主でした。確信と信仰が、彼の中にどれほどの力をつくり出していたことでしょう! それにもかかわらず、彼は、み摂理によってみずからの歩みを導く者として置かれた人々に、常に温順でした。
パウロは、ダマスコへの途上で止められたとき、『主よ、わたしは何をすればよいのでしょうか』と問いかけました。しかし、イエスはご自身でその種々の計画を示す代わりに、パウロをアナニアのもとへと送りました。なすべきことをアナニアから教えてもらうためでした。ここから、サレジオの聖フランシスコやレオ13世は、ふさわしい指導の務めと必要性を説いています。実際、レオ13世は記しています。『聖パウロは、「町に入りなさい。そこで、なすべきことが告げられるであろう」と言われました。教会では、常にこのように実践されてきました。これこそ、長い歴史の中で知識と聖性において輝きを放った人々が皆、一致して宣言している教えです』。
サウロは、みずからの回心を完全なもの、ゆるぎないものとし、その生き方や存在そのものを全面的にイエス・キリストに方向づけた後、魂は大きな炎で燃えていたにもかかわらず、タルソスに退き、謙虚な沈黙のうちにとどまりました。そして、バルナバがアンティオキアへ招きに来るまでは、動こうとしませんでした。アンティオキアから来たバルナバは、教会を代表していました。サウロは、従順のうちに、すぐに従いました。アンティオキアでは、教師たちや預言する人たちがいました。サウロは、彼らのうちで、最後の者として任命されました。彼を異邦人に向けた本来の使徒職へと導き入れるには、聖霊が長老たちに『わたしが決めておいた使命のためにサウロとバルナバを選び出しなさい』と語る必要がありました。長老たちは神の命令を告げ、断食をした後、彼らを叙階しました。
こうしてはじめて、サウロはその定まった使徒職を始めたのです。
このように、アナニア、バルナバ、アンティオキアの長老たちは、聖パウロにとって、導き手、あるいはむしろ霊的指導者でした。彼らは、自分たちの務めをみごとに果たし、聖パウロもみずからの務めをしっかりと行いました。こうして、教会はすべての人にまさってはたらく使徒を得ました。その魂と心は、教会の中で常に鼓動しています」(San Paolo, 1953年7-8月、cf. L’apostolo Paolo, ispiratore e modello, p. 224)。
アンティオキア教会の長老たちの按手を、パウロとバルナバの叙階と理解するなど、第二バチカン公会議前の神学理解の影響が見られるとはいえ、福者アルベリオーネは、神のみ心を識別するうえで、ほかの人の、特に指導者の助言に耳を傾けることの大切さを、教会の伝統にしたがって説いています。アルベリオーネ神父自身も、教会の承認や霊的指導者(フランチェスコ・キエザ神父)の助言を、神の声として大切にしていました。著書Abundantes divitiae gratiae suae(以下、AD)の中からいくつかの記述を取り上げてみましょう(アルベリオーネ神父は、この著書の中で自分のことを「彼」と記しています)。
「ときとして、なすべきことがらが静かに、穏やかに熟す必要があった。主は、短い期間、床につくようにはからわれた。こうして、1~2日の間、部屋に閉じこもった後、新たな気持ちで出てきて、さまざまな計画を霊的指導司祭に見てもらい(場合によっては、これを修正し、さらに発展させ)、必要であれば教会の権威にも見てもらった。いつでも機が熟していたわけではなかった。しかし、主はそのしもべに仕事を任せ、誤りすらも放置されることによって、ものごとを分からせてくださり、……後に、主ご自身が介入して、これらの誤りや失敗を修復し、彼(訳注:アルベリオーネ神父のこと)に代わってはたらいてくださるのであった」(AD 47)。
アルベリオーネ神父は、パウロ家族創立のときが来たことを感じ、自分が属するアルバ教区の司教であったジュゼッペ・フランチェスコ・レ司教に相談した際のことを以下のように記しています。
「開始のときが来ると、司教は神のときを鳴り響かせ(彼〔=アルベリオーネ神父〕は、鐘が鳴るのを待っていた)、教区報発行の仕事に従事するよう任命した。これは、使徒職への道を開いた。そして、発展のときが来たときも同様であった。というのも、ことが進むのを見たとき、司教は、教区への奉仕の務めを辞めさせてほしいとの彼(=アルベリオーネ神父)の願いを許可したからである。『あなたを自由にしてあげよう。〔後のことについては、〕ほかの策を講じることにしよう。自分が始めた事業に全面的に専念しなさい』。
彼(=アルベリオーネ神父)は、辛苦のうちに泣いた。教区に深い愛情を感じていたからである。しかし、彼(=アルベリオーネ神父)は一年前からこのように願い出ており、霊的指導司祭もそれが神の望みであることを認めていたのである」(AD 30)。
福者アルベリオーネはまた、後にパウロ家族のすべての聖堂に掲げられることになる言葉を夢の中で聞いたときにも、霊的指導司祭に意見を求めています。「どのような光の中に聖師の姿が包まれていたかを説明しながら、彼(=アルベリオーネ神父)はこの夢について霊的指導司祭に語った。彼は答えた。『安心しなさい。夢であろうとなかろうと、言われたことは聖なることです。これを、あなたと全会員にとってのいのちと光の実践的プログラムとしなさい』」(AD 154)。
神のみ心とわたしたち自身の思いを明確に判別することは、だれにとっても容易なことではありません。だから、ほかの人、特に教会内の権威者(司教、司祭、長上、指導者、特に霊的指導者など)に聞くことは大切です。わたしたちは、自分の歩みを繰り返し思い起こしながら、神のみ心をたずね求めると同時に、最終的に神のみ心を識別するうえで、ほかの人をとおしてはたらかれる神の言葉に耳を傾けるよう招かれているのです。
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