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第6回:生きるにしても、死ぬにしても

【聖書参考個所】
一テサロニケ4・13~5・11、一コリント13・8-13、15・12-58、
二コリント3・7-18、4・7~5・10、フィリピ1・15-26、3・12~4・1、
ローマ8・1-39、14・7-9など
 
 11月は死者の月です。わたしたちは、この月に、特に死者のために祈り、わたしたち自身の死について考えます。一方で、典礼暦は、次第に終末週へと入っていき、終わりのときの救いについて思いめぐらし、今をふさわしく生きるようわたしたちを招きます。さらに、24日には、命をかけてキリストを証しした188人の日本の殉教者が長崎で列福されます。そこで、今月はパウロが死について、また救いの完成についてどのように考えていたのかを見つめることにしましょう。

 パウロは宣教活動の初めのころ、自分の死について明確に考えてはいなかったようです。これは、パウロが(というよりも初代教会全体が)キリストの再臨をすぐにでも、つまり自分が生きている間に実現するものと考えていたからです。一テサロニケ書には、このような状況が示唆されています。ここで問題になっているのは、キリストの再臨にあずかることなく、死んでしまった(「すでに眠りについた」一テサロニケ4・13以下)キリスト者はどうなってしまうのかということでした。パウロは、この疑問に対して、そのときが来れば、彼らは復活し、生きているキリスト者とともに「引き上げられ」、「いつまでも主と共にいることになります」(一テサロニケ4・17)と宣言します。死者の復活の根拠は、第一にイエスの復活です。そして、死んだ人がイエスを信じ、イエスのうちに(「イエスに結ばれて」)死んだということです。神は、このような人たちをイエスと引き離すことはなさらず、イエスとともに必ず復活させてくださるのです。「イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人をも、イエスと一緒に導き出してくださいます」(4・14)。パウロにとっては、生きているか死んでいるかが問題なのではなく、どちらであっても、キリストを信じ、キリストに結ばれていることが大切でした。

 一コリント書15章で、パウロは死者の復活について説明をしていますが、ここでもキリストの復活をその根拠として挙げています。「死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです」(一コリント15・13)。「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました」(15・20)。同時に、パウロは、終わりのときの救いが現在の状況をはるかに凌駕するものであることを強調します。パウロは、復活の体が、「自然の命の体」(「朽ちるもの」、「卑しいもの」、「弱いもの」)ではなく、「霊の体」(「朽ちないもの」、「輝かしいもの」、「力強いもの」)であることを述べます(15・42-49)。しかし、この救いは死者に限ったことではありません。パウロは、そのすぐ後に、「わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません」(15・51)と続け、すべての人が死ぬわけではないことを述べたうえで、生きている人も含め、「わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます」(同)と記すのです。

 ところが、パウロは宣教活動の中でさまざまな危険に遭い、死を意識せざるをえないようになります。フィリピ書を記したとき、パウロは牢の中に監禁されていました。すぐにでも死刑の宣告がなされるかもしれない状況にありました。そんな中で、パウロは、「死ぬことは利益」(フィリピ1・21)であり、生きることに比べて「はるかに望ましい」(1・23)と記します。それは、「キリストと共にい」(同)ることだからです。どうやらパウロは、死の瞬間をみずからの救いの完成と同一視していたようです。

 二コリント書でも、パウロは同じ望みを、「天から与えられる住みかを上に着たいと切に願って」(二コリント5・2、なお4節も参照)いると記しています。それは、「人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです」(5・1)。だから、パウロは「体を離れて、主のもとに住むことをむしろ望んでいます」(5・8)。ところが、パウロはすぐその後で、「体を住みかとしていても、体を離れているにしても、ひたすら主に喜ばれる者でありたい」(5・10)とも述べています。パウロは、死をとおして与えられる主キリストとの一致や栄光を熱望していますが、だからと言って、生きることを放棄するわけではありません

 これは、フィリピ書でも同じことです。パウロは、自分にとって死ぬことが「はるかに望ましい」(フィリピ1・23)と言いながら、一方で、生き続けるほうが、「実り多い働きができ」(1・22)、「あなたがたのためにもっと必要です」(1・24)とも述べます。そして、「どちらを選ぶべきか、わたしには分かりません。この二つのことの間で、板挟みの状態です」(1・22-23)と、みずからのジレンマを吐露しています。しかし、結論はと言えば、「こう確信していますから、あなたがたの信仰を深めて喜びをもたらすように、いつもあなたがた一同と共にいることになるでしょう」(1・25)、つまり、パウロは──当たり前のように──生きることを選び取るのです。

 いったい、これはどういうことなのでしょうか。たしかにパウロにとって、救いの完成(自分自身の死)は、超自然に属することがら、キリストとの完全な一致であって、現在の状況とは比べものにならないほどすばらしいものです。それは、あまりにもすばらしいものなので、希望をもって現在の苦しみを耐える力となります(ローマ8・18参照)。

 しかし、それはすべてキリストの死と復活によって保障されているものです。いや、このキリストを信じ、受け入れることによって、キリスト者の中に、神の霊が生きているからこそ、それは保障されているのです。「イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう」(ローマ8・11)。キリスト者は、罪人でありながら、信じることによって義とされるという大きな恵みを神から受けました。だからこそ、キリストに結ばれているかぎり、同じ神はこれとは比べものにならないほどの大きな栄光をその人に与えてくださるのです。「敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです」(5・10)。「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまずに死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか」(8・32)。

 パウロにとって、将来、自分を栄光で満たしてくださるキリストは、生きている今、自分の中ではたらいておられる方と同一です。「生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のもの」(14・8)であり、いずれにしてもキリストの思いを思いとし、これに従うことこそが大切なのです。死のときは、神が定めてくださいます。それまでは、「死ぬはずのこの身にイエスの命が現されるために」(二コリント4・11)生きるのです。

 このような生き方の模範を、わたしたちは殉教者の中に見いだすことができます。殉教者は、みずからの死をもってキリストを証ししましたが、死を望んでいたわけではありません。むしろ、キリストのために「生きる」ことをとおして、恵みとして、殉教の死を受けたのです。殉教の冠は、キリストに生かされ、キリストのために生きることのすばらしさを確信し、これを実践した人に与えられる恵みです。同じように、わたしたちに約束されている終わりのときの栄光は、キリストの愛を感じ取り、キリストが自分の中に生きてくださることのすばらしさを理解し、そのはたらきに身を任せた者に与えられる恵みなのでしょう

 パウロ家族の創立者アルベリオーネ神父が、四終(novissimi)の黙想を大切にしていたのは有名な話です。それは、人生の目的がわからなければ、今の生き方がふさわしいかどうかを判断することはできないからです。アルベリオーネ神父は、以下に引用する『キリストがあなたがたのうちに形づくられるまで』の一文の中で、神の栄光を最終目的ととらえ、人生をそこに至るための試験の期間であると述べています。人生の歩みの中で、この目的を実現しようと努めることこそが、最終目的の実現につながるのです。それは、突きつめていけば、御父みずからがわたしたちの中に送ってくださる師キリストという恵みに気づき、そこに神の愛の最大の現れを感じ取り、このキリストと全面的に一致することによって実現します。師であるキリストがわたしたちの中で全面的にはたらいてくださるように、今を歩むことこそ、永遠の目的を達成する道なのです。

 「永遠において神に栄光を帰すため、神のみ手から出た人間は、人生という試験の旅をしなければなりません。御父ご自身が、その御子、師を送ってくださいました。〔師が〕指し示し、歩み抜き、自ら人間の乗り物となるためにです。こうして、人間はこのような御子と同じ型を持つ者──知性において、意志において、いのちにおいて──となったかどうかに応じて、終わりに採点されます。このような同じ型を持つことの中に愛があるからです。愛した者が、永遠の報いとしてその愛を続けることができるように。愛さなかった者が、永遠に神から遠く離れたままになるように。

 世は、人間の破壊と毒麦の側からは、不完全な神の国ですから。永遠は、人間の側からも完全な神の国ですから。永遠に神に栄光を帰すことをとおして。「Faciamus hominem ad imaginem et similitudinem nostram(我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう)」(創世記1・26)。そして、人間によって傷つけられたかたどりは、神の御子のうちに修復され、聖霊によって、あふれるほど豊かな恵みによって、美しさにおいて、最初のかたどりを凌駕することになるのです」(Donec formetur Christus in vobis, pp. 35-36、日本語訳『キリストがあなたがたのうちに形づくられるまで』92-93)。