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第7回:キリストに駆り立てられて

【聖書参考個所】
フィリピ3・12-16、ローマ15・17-19、二コリント3・1-18、
ガラテヤ3・1-14、4・4-7、ローマ12・1-2など
 
 先月(11月)は、死者の月や殉教者の列福ということもあり、パウロの終末観について黙想しましたが、今回はそれまでの流れに戻って黙想を進めたいと思います。これまで、わたしたちは、パウロがキリストとの出会いをとおして感じ取った神秘について見つめてきました。かいつまんで言うと、それは、キリストが神の計画にしたがって、わたしたちのために死んで復活してくださったということ、だからこのキリストを信じることにより、キリストがその人の中に生きてくださるということ、そしてこのキリストのはたらきのゆえにその人は義とされるということでした。同時に、わたしたちは、パウロがこのことを歩みの中で徐々に理解していったこと、その過程で周りの人の助けも大きな力となったことを見てきました。
 
 信仰をとおして、キリストがわたしたちの中にはたらいてくださることにより、わたしたちは無償で義とされるのであり、わたしたちのおこないによるのではない。これは、パウロの理解の根本にある視点です。では、神がはたらいてくださるので、わたしたちは何もしないでいいのでしょうか。パウロは、このような考え方に警鐘を鳴らし、常にキリスト者を信仰にふさわしい生き方へと招きました。「では、どうなのか。わたしたちは、律法の下ではなく恵みの下にいるのだから、罪を犯してよいということでしょうか。決してそうではない」(ローマ6・15、ほか、パウロの手紙の勧告部分を参照)。
 
 パウロにとって、キリストとのかかわりは常に生きたものです。キリストはパウロの中に生きておられるのであって、たえずはたらき続けておられます。だから、このキリストは内側からパウロを巻き込まずにはいません。パウロをふさわしい生き方へと駆り立ててやまないのです(二コリント5・14参照)。こうして、キリストに捕らえられたパウロは、キリストを捕らえようと「目標を目指してひたすら走る」のです(フィリピ3・12-16)。もはや、パウロは、キリストのうちに(「エン・クリストー」)生きないではいられないのです。それほどまでに、パウロはキリストと生き生きと結ばれているのです。
 
 パウロの中ではたらくキリストのわざと、キリストのうちになされるパウロのわざは、今や切り離すことができません。たとえば、次の個所(異邦人の宣教について述べている個所ですが)における神、キリスト、パウロの関係、そして主語の入れ代わりに注意を向けるといいでしょう。「わたしは、神のために働くことをキリスト・イエスによって誇りに思っています。キリストがわたしを通して働かれたこと以外は、あえて何も申しません。キリストは異邦人を神に従わせるために、わたしの言葉と行いを通して、また、しるしや奇跡の力、神の霊の力によって働かれました。こうしてわたしは……キリストの福音をあまねく宣べ伝えました」(ローマ15・17-19)。
 
 しかし、このキリストの思いを思いとし、キリストのうちに生きる生き方は、文字に書き表すことのできるものではありません。具体的になすべき行為は、はじめから自明なものではなく、またいつも同じというわけでもなく、キリストとの生きたかかわりの中で明らかになっていくものです。パウロは、しばしば文字に書かれた律法と生ける神の霊を対比させ、今やわたしたちの心に霊が与えられ、わたしたちはこの霊によって生かされていると強調します(たとえば、二コリント3・1-18、ガラテヤ3・1-14)。律法の命じるおこないは、だれにとっても明確です。しかし、今やわたしたちは、律法の支配下からあがない出され、霊に生かされる神の子とされました(ガラテヤ4・4-7参照)。だから、わたしたちは、みずからの中に霊として生きておられるキリストとのかかわりのうちに、キリストが今わたしたちの中で何をしようと望んでおられるのか、わたしたちに何をするように望んでおられるのかを見定め、そのように生きる必要があるのです
 
 パウロにとって、キリスト者としての生き方の根幹は、もはや書かれたおきてにはありません(律法がどんなに有益なものであってもです)。わたしたちの生き方の根幹は、今やわたしたちの中に生きておられるキリストだけなのです。だから、すべてをこのキリストのうちに吟味する必要があります。「神こそが、ご自分のよしとするところにしたがって、あなたがたのうちに、望みと行いを生じさせてくださるのです」(フィリピ2・13、私訳)。「あなたがたは……心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい」(ローマ12・2)。「すべてを吟味して、良いものを大事にしなさい」(一テサロニケ5・21)。「霊の導きに従って歩みなさい」(ガラテヤ5・16)。
 
 パウロ家族の創立者アルベリオーネ神父にとっても、すべては神のわざです。しかし、同時に神に駆り立てられたわたしたちのおこないも重要です。アルベリオーネ神父の言葉を用いれば、前者が「恵み」、後者が「協力」です。わたしたちのはたらきは、あくまで神のはたらきに対する「協力」ですが、欠かすことのできないものです。そのように神が望まれたからです。「一方に恵みがあります。……もう一方には、協力……があります。『働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです』(一コリント15・10)。『わたしたちは神の協力者です』(一コリント3・9参照)」(Donec formetur Christus in vobis, p. 11〈以下DF〉、日本語訳『キリストがあなたがたのうちに形づくられるまで』8)。「条件を備えたわたしたちのはたらきが要求されます。しかし、イエス・キリストのうちにはたらく人はだれでも、この方のいのち、すなわち恵みを共有するぶどうの枝のようなものです。『その人は豊かに実を結ぶ』(ヨハネ15・5)。イエス・キリストのいのちはかぎりないものです。そう、ですから、功徳と恵みはわたしたちの心の中で際限なく成長することができるのです」(DF p.58、日本語訳154)。恵みが先にあり、恵みなしにわたしたちは何もできませんが、この恵みはわたしたちの中で無限のものとして満ち満ちていき、わたしたちを協力へと駆り立てるのです。
 
 アルベリオーネ神父にとっては、神ご自身の目的さえも、人間の協力なしには実現しません。「最終目的:神の栄光。〔この目的は、〕人間をとおして、人間の側から達成されなければなりません。地上では、賛美と、知性と心の神への温順によって。永遠においては、神の完全な認識、賛美、神への愛によって。すなわち、人間の至福をとおして。……地上では神の知識と愛が完全になればなるほど、それは達成されます。無知と誤りから出発して、ついにはイエス・キリストにおいて神のように考えるところにまで至る神の認識です。常に神と一つに結ばれていて、神のうちにすべてを見、判断し、秩序づける魂の状態です」(DF p.25、日本語訳34-35)。
 
 この引用に見られるとおり、人間の「協力」は、「神のように考える」こと、つまり神の望みをわたしたちの望みとすることによって実現します。「神の意志を最高の法、最大の愛の行為として受け止めること」(DF p.19、日本語訳21)。「神の意志は、ひまわりのように魂がいつでも向いていなければならない、大いなる太陽です」(DF p.20、日本語訳22)。
 
 この神の望みは、イエス・キリストのうちに完全に示されました。「イエスは主の意志をおこなうことにおけるモデルです。神の意志をおこなうことは完徳です。神の意志をおこなうことは主への真の愛です。神の意志をおこなうことは最も確かな道です。このように、わたしたちの主イエス・キリストはおこなわれました。……イエス・キリストの生涯は『神の意志を完全におこなった者の生涯』という表題に要約することができます。『わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行うことである』(ヨハネ4・34)。『わたしは、いつもこの方の御心に適うことを行う』(ヨハネ8・29)」(DF p.44、日本語訳114-115)。
 
 このキリストが、師としてわたしたちに与えられ、わたしたちの中で道・真理・いのちとしてはたらいておられます。だから、わたしたちはこの師イエスと全面的に一致し、イエスの思いを思いとし、イエスの望みを望みとし、イエスのおこないをおこないとするように招かれているのです。このようなキリストとの一致への道をわたしたちは日々歩み深めていきます。しかし、この歩みはキリストのうちにあってはじめて実現するものです。だから、アルベリオーネ神父は、祈りの形でこの歩みの実現を願い求めます。
 
 「師よ、あなたは永遠のいのちのことばを持っておられます。わたしの思い、わたしの考えをあなたご自身と取り替えてください。ああ、あらゆる人を照らす方、真理そのものである方。あなたが教えてくださるようにでなければ、わたしは考えを組み立てたくありません。あなたの判断にしたがってでなければ、判断したくありません。あなたのほかは考えたくないのです。御父からわたしに与えられた根本的な真理であるあなたのほかは。『真理であるイエス、わたしの知性に中に生きてください』。
 
 あなたの生涯はおきて、道、唯一、真の、誤ることのない確かさです。馬小屋からも、ナザレからも、カルワリオからも、あなたの生涯はすべて神的な道を指し示すものです。御父への愛の道、かぎりなく純潔な道、人々への愛、十字架上のいけにえへの愛の道です。……わたしがこの道を知ることができるようにしてください。どんなときも、あなたの清貧、貞潔、従順の足跡をたどることができるようにしてください。ほかの道はすべて広く……〔しかし〕あなたの道ではありません。イエスよ、あなたがしるされなかったすべての道を、わたしは無視し、嫌います。あなたがお望みになることを、わたしは望みます。わたしの意志の代わりにあなたの意志を打ち立ててください。
 
 わたしの心に代えて、あなたの心が置かれますように。わたしの愛、神への、隣人への、自分自身へのわたしの愛に代えて、あなたの愛が置かれますように。人間としての罪深いわたしのいのちに代えて、神としてのあなたのいのち、まったく純潔で、自然のすべてを超えるあなたのいのちが置かれますように。『わたしはいのちである』。だからこそ、わたしは自分の中にあなたを置くため、聖体拝領、ミサ聖祭、聖体訪問、受難に対する信心に全神経を傾けます。このいのちが、はたらきの中に現われ出ますように。『キリストがわたしの内に生きておられる』(ガラテヤ2・20)ことが聖パウロに実現したように。永遠のいのち、根本的ないのちであるイエス、わたしの中に生きてください」(DF pp.39-40、日本語訳101-103)。