第8回:最高の道である愛
【聖書参考個所】
ローマ5・1-11、8・31-39、12・9-21、13・8-10、14・13-23、15・1-7、
一コリント8・1-13、10・23~11・1、12・31~13・13、二コリント8・8-9、
ガラテヤ5・13-15、22-26、フィリピ2・1-11など
先月、見たように、キリストに捕らえられたパウロは、キリストに駆り立てられ、すべてをキリストのうちに見つめなおし、キリストの望みにしたがって生きるようになります。「キリストの望みにしたがって」とは言いますが、このキリストは、パウロの中に生きておられる方です。ですから、その望みは最初から自明のものではなく、生きたかかわりのもとに絶え間なく見つめなおすことによって、はじめて明らかになっていきます。とはいえ、キリストの望みや生き方にはある一定の特徴が見られます。パウロは、これをキリストの十字架上の死と復活において実現した神の計画の中に理解していきました。
その中で、最も中心にあり、基準とすべきものは、「愛」であると言えるでしょう。キリストのうちにある者の歩みは、愛に基づく歩みです。「愛によって互いに仕えなさい。律法全体は、『隣人を自分のように愛しなさい』という一句によって全うされるからです」(ガラテヤ5・13-14)。「互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。人を愛する者は、律法を全うしているのです。『姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな』、そのほかどんな掟があっても、『隣人を自分のように愛しなさい』という言葉に要約されます。愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです」(ローマ13・8-10)。「そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます。……信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である」(一コリント12・59、13・13)。「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です」(ガラテヤ5・22-23、ただし、この個所は「霊の結ぶ実は愛、喜び、平和、寛容……」のように並列に訳すこともできます)。
このように、パウロはキリスト者の生き方の基準を「愛」という言葉で理解しています。しかし、パウロが理解する愛は、第一にキリストの十字架上の死をとおして示された神の愛です。「わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました」(ローマ5・8)。一コリント13章の有名な愛の賛歌の中で、パウロは「愛」を、異言、知識、信仰、財産の寄付といっただれの目にも輝かしい要素と対比しています。この愛は、必ずしも見栄えのよいものではありません。愛は、「すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」(一コリント13・7)。愛は、他者の利益のために、自分を犠牲にし、忍耐強く苦難に立ち向かうものです。このような「キリストの愛がわたしたちを駆り立ててい」(二コリント5・14)ます。だから、艱難も、苦しみも、迫害も、飢えも、裸も、危険も、剣も、このようなキリストの愛からわたしたちを引き離すことはできないのです(ローマ8・34-35参照)。この愛は、先の引用句(ローマ5・8)と結びつけると、すべての人の救いのために神の計画にしたがう、キリストのケノジス(自分を無にすること)の生き方に見事な形で現れています。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(フィリピ2・6-8)。だから、パウロはこのキリストにならって、「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい」(2・3-4)と勧めるのです。
パウロにとって、「愛は造り上げる」(一コリント8・1)ものです。愛は、「何とかして何人かでも救うため」に「すべての人に対してすべてのものになる」(9・22)ように駆り立てます。「だれかが弱っているなら、わたしは弱らないでいられるでしょうか。だれかがつまずくなら、わたしが心を燃やさないでいられるでしょうか」(二コリント11・29)。パウロにとっての判断基準は、自分の行為が正しいかどうか、許されているかどうか、自分がそれをおこなう権利を持っているかどうかにはありません。愛に基づくかどうか、すなわち相手を救いへと導くかどうかにあるのです。だから、パウロはたとえ知識のうえで偶像に供えられた肉を食べることが問題なくとも、それが人を造り上げることを妨げるのであれば、当たり前のように自分の権利を放棄します。「食物のことがわたしの兄弟をつまずかせるくらいなら、兄弟をつまずかせないために、わたしは今後決して肉を口にしません」(一コリント8・13)。それは、使徒としての権利についても同じです。パウロは、自分が使徒であり、使徒としての権利を持っていることを自覚しています。しかし、パウロは福音を宣べるにあたって、使徒としての権利を放棄し、奴隷と同じように自分の手で働いて(肉体労働は奴隷の仕事でした)日々の糧を得ます。「できるだけ多くの人を得るため」に「すべての人の奴隷に」(9・19)なったのです。そのことによって、体面を失い、ほかの人たちから侮蔑されたとしてもです。
パウロの生涯を見ればわかるとおり、真の愛は、それを生きる者に多くの苦難をもたらします。中でも、パウロにとって苦しかったことの一つは、同じキリスト者である兄弟たち、特に自分が設立した教会の兄弟たちの無理解や侮蔑だったでしょう。コリントの教会との衝突では、かなり激しいやりとりもあったようです。それでも、パウロはキリストの愛に駆り立てられて、忍耐強く愛を貫きとおすのです。
パウロが、コリントの教会に訴えていることは、わたしたちにも大きな問いかけとなって響きます。「『すべてのことが許されている。』しかし、すべてのことが益になるわけではない。『すべてのことが許されている。』しかし、すべてのことがわたしたちを造り上げるわけではない。だれでも、自分の利益ではなく他人の利益を追い求めなさい」(一コリント10・23-24)。他者への愛、他者を造り上げること、これこそわたしたちの生き方の基準であるはずです。しかし、いつの間にか、わたしたちの間では、別の基準が当たり前のように飛び交い始めます。「許されている」、「長上の許可はもらった」、「わたしにはその権利があるはずだ」、「わたしは間違っていない」、「何でわたしがそんなことをしなければならないのか」……。そんなとき、パウロは同じ訴えをわたしたちに投げかけているのではないでしょうか。いったい、わたしたちの生き方の基準はどこにあるのか、と。
パウロ家族の創立者アルベリオーネ神父にとっても、愛はキリスト者の生き方の根本を形づくるものです。
「愛とは、善をおこなう人に主が約束された賞のほかは、なにものも要求することなく与えること。これこそ愛です。
……事実、愛のおきてはキリスト教的生活と聖性の土台を形づくります。聖パウロが述べているとおり、あらゆるおきてはただ一つのおきて、『愛しなさい』に帰するからです。
……ときによって、ある人は正義に訴えます。わたしたちは愛に訴えましょう。
……偉大な救霊者たちは、イエス・キリストのように、みずからを十字架に渡しながら、自分を十字架につける人たちのために祈ります。十字架にかけられた方は、愛する人たちの偉大な師です」(Ritiri mensili, 1934, pp.110-128)。
わたしたちの歩みは、神の愛に達することをめざす歩みです。
「神の認識を完全なものにすること。そして、罪を避けること。まったく奴隷のような恐れを避け、これを子としてのものに変えること。こうして、神の愛の種々の段階を登っていくこと。……無知から、人間的知識から、大罪への憎しみ、小罪への憎しみ、自己愛への憎しみから登っていきます。神の知識、神の純粋な愛にまで。毎日、少しずつ」(Donec formetur Christus in vobis, p.26、日本語訳『キリストがあなたがたのうちに形づくられるまで』35-36)。
しかし、わたしたちの中には、これを妨げる要素があります。「わたし自身」です。だから、愛する生き方には、必ず犠牲がともないます。わたしたちには、忍耐強い歩みが必要なのです。
「戦いは、まさに『わたし』と神との間にあります。神に代えてみずからを礼拝し、たたえ、愛し、みずからに仕えようと望む『わたし』。そして、愛の力で人間をもうけよう、愛のきずなで人間を結びつけよう、愛によってみずからを示し、人間を神性の中に包み込もうとなさる神との間に」(Donec formetur Christus in vobis, pp.62-63、日本語訳『キリストがあなたがたのうちに形づくられるまで』167)。
この「わたし自身」は、聖なるものや行為の中でさえ、活動します。「この『わたし』は、黒い修道服の下に、十字架の徽章の下に、ロザリオの鎖の下に、ベールの下に身をひそめています」(Ss. Spirituali Esercizi, 1937, pp. 5-6)。そのため、気をつけていないと、自分自身でもだまされてしまいます。
創立者は、経験と教会の教えに基づく一つの基準を示しています。
「犠牲をともなわない愛は、欺くものであり、感傷にすぎません。真の愛は、みずからをほふられたイエスの愛だからです」(Esercizi alle Maestre, 1942?, p. 46)。
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