第9回:キリストのからだとして
【聖書参考個所】
ローマ12・3-8、一コリント1~4章、12章、フィレモン4-22など
前回は、パウロが理解するキリスト者の生き方の中心的基準に「愛」があること、そしてこの愛は他者の救い、全体の救いのために自分をささげることであり、それはキリストの十字架上の死において示された神ご自身の愛に基づくものであることを見ました。パウロは、キリストと自分がもはや引き離すことができないしかたで一体であることを感じています。だから、このキリストの愛に駆り立てられて、パウロもほかの人を愛さないではいられないのです。
しかし、パウロがほかの人を愛してやまないのは、彼らがキリストにおける兄弟だからでもあります。パウロがキリストと一体であるなら、ほかのキリスト者も同じようにキリストと一体です。だから、パウロはキリストにおいて、すべてのキリスト者と一体なのです。フィレモンへの手紙には、この点が生き生きと描き出されています。パウロは、オネシモをフィレモンのもとへ送り返すにあたって、この手紙を書いています。キリスト者となったオネシモは、「主を信じる者として……愛する兄弟」(フィレモン16)です。このオネシモのことを、パウロは「わたしの心」(12節)とまで呼んでいます。新共同訳では「心」と訳されていますが、ギリシア語原文では「スプランクナー」という単語が用いられています。これは「内臓」、「臓器」、「はらわた」といった意味を表す単語です。パウロにとって、オネシモはもはや他人ではありません。自分の内部にある者、いや自分を生かす臓器なのです。何とかして愛さなければならない対象というよりも、当然のごとく大切にされる自分のいのちの一部なのです(この単語に由来する動詞「スプランクニッゾマイ」は、通常、「憐れに思う」と訳される言葉です。相手を自分自身の内臓の一つとして感じるために、相手の困苦窮乏を自分のものと感じ、その必要を満たすためにありとあらゆることをしないではいられないことを表します)。パウロは、手紙の後半で、フィレモンに「兄弟よ、主によって、あなたから喜ばせてもらいたい。キリストによって、わたしの心を元気づけてください」(20節)と願っています。あえて同じ表現が用いられているので、この個所を、「わたしの内臓であるオネシモを元気づけることによって、わたしを元気づけてください。オネシモは、キリストによって、あなたの内臓でもあるのですから」と読み取ることもできるのではないでしょうか。
このような、キリストにおけるキリスト者同士の内的な結びつきを、パウロは「キリストのからだ」という視点でとらえています(一コリント12・12-31、ローマ12・3-8)。「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です」(一コリント12・27)。キリスト者は一人ひとりが異なる存在です。しかし、「体のすべての部分の数は多くても、体は一つ」(12・12)です。このからだは、ただ一つの霊によって生かされる、ただ一つのからだなのです。だから、同じからだの部分として、「互いに配慮し合」(12・25)い、「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです」(12・26)。
パウロがこの教えを語っている相手、コリントの教会は、さまざまな面で内部分裂や争いを露呈していました。しかし、パウロは現実に甘んじるのではなく、キリストのうちに自分たちの関係を見つめるよう招きます。キリスト者がキリストと結ばれた者であるかぎり、分裂することはありえないのです。「キリストは幾つにも分けられてしまったのですか」(1・13)。強烈な問いかけです。キリスト者が互いに一致できないとき、問題となっているのは、キリスト者とキリストとの関係であり、キリストご自身なのです。
キリストのからだの概念は、いくつかの重要な側面を明確にするのに適しています。その一つは、キリスト者は自分一人だけでキリストと結ばれているのではなく、すべてのキリスト者と一体となってキリストと結ばれているということです。だれか一人が欠けていても、キリストのからだは成り立たないのです。この概念は、「わたし」という視点から、「わたしたち」という視点へ導いてくれます。わたしたちは、キリストと結ばれているから互いに一つであると同時に、互いに一つのものであるからキリストと結ばれているのです。
こうして、パウロにとって、「わたし」とキリストとの関係と「わたしたち」同士の関係は、「わたしたち」とキリストとの関係の中で一つになっていきます。実際、パウロは手紙の中でこの3つの関係を縦横無尽に行き来しながら、教えを述べています。この意味で、パウロの霊性はパーソナルであると同時に、きわめて共同体的なものなのです。
キリストとの深い関係に基づく、内的交わりの神秘としての教会理解は、第二バチカン公会議後にあらためて深められてきた視点です。一方で、パウロ家族の創立者アルベリオーネ神父が神学を学び、多くの会を創立して導いていった時代は、「教皇を頂点とする完全で超自然的な社会」として教会をとらえる方法が主流でした。これは、教会が国家や政治との確執の中で、みずからのアイデンティティーを明確にしようとしたことに由来しています。「キリストの神秘体」という概念も、唯一の霊に生かされた有機的交わりとしての意味合いよりもむしろ、キリスト(およびその代理者である教皇)を頭とする組織体としての意味合いで用いられました。
このため、教会に関するアルベリオーネ神父の教えは(それだけではありませんが)、今日の神学的深めをもとに読み直される必要があります。しかし、それは彼の教えにこのような視点が欠けているという意味ではありません。実際に、アルベリオーネ神父は修道会を「家族」と呼び、修道院を「家」と呼んでいましたし、皆が一つとなってキリストを形づくることを意識していました。彼は、パウロ家族が「今日に生きる聖パウロ」であるように求めていますが、それは「個人」としてよりも、むしろ「パウロ家族全体」としてでした。「多くのメンバーからなるパウロ家族は、一つの社会的からだにおいて、今日に生きる聖パウロでなければなりません」(Vademecum, 651)。創立者にとって、聖パウロは最も十全的なしかたで師キリストを生きた模範です。したがって、パウロ家族は全体が一つになって「有機的からだ」を形づくることで、今日の聖パウロとなり、そして今日、最も十全的なしかたでキリストを生きるものとなるよう招かれているのです。
アルベリオーネ神父は、共同体や集団における成熟した人間関係の重要性を強調し、パウロ家族のメンバーにこれを求めました。通常、「社会性」、「社交性」と訳されますが、創立者が「社会」という単語を用いるとき、それは同一の目的をもつメンバーがつくる組織体のことです。
「教会とキリスト教世界について言えば、社会性の固有の基礎は『神秘体』の教えです。単に外的かかわりだけではありません。教会の生きたメンバーたちの間で、イエスの血自体が、すなわちイエスのいのち自体が巡り流れ、全員を生かすのです。こうして、多くの肢体からなり、イエス・キリストご自身を頭とするただ一つのからだとなるようにです。わたしたちは、教会を形づくるのです。……社会性は、わたしたちが一人ひとりの信者(少なくとも教会のいのちに属する信者)の中に血で結ばれた(イエス・キリストの血で結ばれた)兄弟を見いださせてくれます」(San Paolo, novembre 1953, p. 4)。
「召命のしるし、それは修道会への愛です。自分の組織、会憲、長上たち、兄弟たち、計画、はたらき、修道院などのすばらしさを語ること。常に、全員の聖性のため、召命のため、使徒職のために祈ること。召命のためにはたらくこと、それぞれの立場に応じて、霊的、知的成長や使徒職、そして物質的善のために全力で寄与すること。欠点を除き、善をはぐくむためにはたらくこと」(同)。
信徒の皆さんは、ここで言われる「修道会」を、自分の属する「教会」、「教区」と読み換えるといいでしょう。キリスト者が、人間関係や組織を見るとき、どのような視点をもつべきかのヒントが、ここに示されていると思います。
最後に、交わりの神秘である教会と奉献生活について述べた教皇ヨハネ・パウロ2世の言葉を引用したいと思います。非常に深い教えです。
「実際に、教会は本質的に交わりの秘義であり、『父と子と聖霊の一致によって一つに集められた民』です。兄弟的生活は、三位一体が住まわれる人間的場としてみずからを形づくりながら、この秘義の深さと豊かさを映し出そうとします。こうして、三位一体は、神の三位に固有の、交わりというたまものを歴史の中に広めます。……奉献生活には、三位一体の信仰告白としての兄弟的交わりの要求を教会の中で生き生きと保つことに効果的に寄与してきたという功績があるのは確かです。共同生活という形態においても、兄弟的な愛をたえず促進することによって、奉献生活は、三位一体の交わりにあずかることで人間の関係は変えられうること、新しい連帯の形がつくり出されることを明らかにしました。このようなしかたで、奉献生活は兄弟的交わりの美しさと具体的にそこに導く道を人々に指し示しています。事実、奉献された人々は、神の『ために』、神に『よって』生きています。まさにそれゆえ、彼らは、恵みが持つ和解する力、すなわち人間の心の中や社会のかかわりの中にある分裂へのダイナミズムを打ち砕く力を宣言することができるのです」(教皇ヨハネ・パウロ2世使徒的勧告『奉献生活』41、中央協議会発行の訳文を参考に訳しなおし、原文でイタリックの個所は下線を引きました)。
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