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第10回:わたしは福音を告げ知らせずにはいられない

【聖書参考個所】
ローマ1・1-7、3・21-26、15・14-21、一コリント9・1-23、15・1-11、
二コリント5・11-21、ガラテヤ1・11-12、4・8-20など

 
 パウロはなぜ、あれほど熱心に福音を宣べ伝えたのでしょうか。さまざまな視点から説明することが可能でしょう。まず、パウロ自身の実体験から宣教の熱意は生み出されたと言えるでしょう。パウロは、キリストに敵対していたにもかかわらず、このキリストによって義とされました。「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました」(ローマ3・23-25)。パウロは、みずからこの福音を受けました。「イエス・キリストの啓示によって知らされた」(ガラテヤ1・12)と同時に、この福音は「わたし(=パウロ)も受けたものです」(一コリント15・3、ここでは福音の伝承・継承を表す固有の表現が用いられています)。パウロ自身がこの福音を受け、信じました。そして義とされました

 「今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのはなおさらのことです。敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです」(ローマ5・9-10)。この救いとは、「神の子とする霊を受けた」(8・15)ということであり、「キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださる」(8・11)ことであり、「神の子供」、「神の相続人」、「キリストと共同の相続人」として、「共にその栄光をも受ける」ということです(8・16-17)。この「将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると」、「現在の苦しみは……取るに足りない」(8・18)ものです。「わたしたちは皆、……鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられ」(二コリント3・18)ていくのです。

 パウロは、福音を信じることによって、どれほどすばらしい恵みにあずかる者となったかということを、身をもって体験しました。だから、この福音という宝をほかの人々にも告げ知らせないではいられないのです。「わたしたちも信じ、それだからこそ語ってもいます」(二コリント4・13)。

 しかし、この「熱意」は、すばらしいものを他者にも分かち合いたいといった、単に人間的な感情にすぎないものではありません。それは、信じることによって、その人の中に注がれた「神の愛」、「十字架の知恵」、「信仰の力」がもたらす動きなのです。言い方を変えれば、「福音」そのものが「神の言葉」、「神の力」となって、その人の中ではたらき、彼を突き動かすのです。今や、キリストご自身が、霊として、その人の中ではたらいています。「キリストの愛がわたしたちを駆り立てている」(二コリント5・14)のです。だからこそ、パウロはこれを押しとどめることができないのです。福音は、土の器に納められた宝であり(4・7参照)、力は「土の器」の側からではなく、「宝」から来るものだからこそ、「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない」(4・8-9)のです。

 パウロが自分の言葉とおこないとで福音を宣べ伝えるのですが、実はキリストこそがパウロの中で、パウロをとおして福音を告げ知らせているのです。「キリストは異邦人を神に従わせるために、わたしの言葉と行いを通して、また、しるしや奇跡の力、神の霊の力によって働かれました」(ローマ15・18-19)。

 福音宣教は、パウロのわざであると同時に、これを超えた神のわざです。パウロは福音を受け、これを神の言葉、霊の力として信じ、受け入れたことによって、キリストがパウロの中に入って生きるようになり、パウロもキリストにおいて生きるようになりました。そして今や、このパウロの中に生きるキリストが、パウロを福音宣教へと駆り立てます。それだけではありません。パウロの福音宣教をとおして、福音のうちにキリストご自身がはたらかれます。一方で、福音が告げ知らされる側が、福音を単なる人間の言葉や教えとしてではなく、生きた神の言葉として信じ、受け入れることにより、その人の中にキリストが入り込み、はたらくようになるのです。こうして、この人も内側に生きるキリストに駆り立てられて、キリストのうちに生きるようになり、この人自身も福音宣教へと駆り立てられるのです。これが神秘としての福音宣教のダイナミズムです。

 このように考えると、福音宣教とは、キリストについて語り、その教えを宣べ伝えればいいというものではありません。洗礼へと導けばいいというものでもありません。キリストがすべての人の中にはたらき、一人ひとりの中に全面的に生きるようになるまで、つまり福音がそのすべてを輝かせるときまで絶え間なく続いていくのです。この意味で、わたしたちが「司牧」と呼ぶ分野も、パウロにとっては「福音宣教」の一部なのでしょう。だからこそ、パウロは新しい教会を設立する一方で、すでに設立した教会の世話にも尽力するのです。「キリストがあなたがたの内に形づくられるまで、わたしは、もう一度あなたがたを産もうと苦しんでいます」(ガラテヤ4・19)。

 福音宣教のダイナミズムは(ここに記すことのできなかったほかの側面も含めて)、パウロにとってキリストとのかかわりそれ自体を表すものなのかもしれません。パウロが、福音を告げ知らせること自体を宣教活動の報酬であると言っているのには、そういう意味もこめられているのでしょう。「わたしの報酬とは何でしょうか。それは、福音を告げ知らせるときにそれを無報酬で伝え……〔る〕ということです」(一コリント9・18)。福音宣教に対するパウロの熱意も、このダイナミズムの中で理解されるべきものでしょう。

 パウロ家族の創立者アルベリオーネ神父は、パウロにならい、イエス・キリストの使徒として、壮大な福音宣教のわざを成し遂げました。今や世界中に広がるパウロ家族とこれを構成する10の会を次々に創立し、これら一つひとつを導き育てました。メディアをとおして福音を宣教するという、約100年前の創立時にはほとんどのキリスト者たちが考えることすらしなかった活動を使命とする「聖パウロ修道会」と「聖パウロ女子修道会」。聖体・司祭職・典礼への奉仕を使命とする「師イエズス修道女会」。日本では活動していませんが、司牧の分野で奉仕をする「よい牧者イエスの修道女会」と、召命のために活動する「使徒の女王修道女会」。また、こうした宣教活動を、修道者としてではなく、それぞれの場で奉献生活を生きることによっておこなう4つの在俗的奉献生活の会、すなわち教区司教・司祭からなる「司祭であるイエス会」、男性信徒からなる「大天使聖ガブリエル会」、女性信徒からなる「聖マリア・アンヌンチアータ会」、すでに結婚している夫婦が家族としてともに奉献生活を生きる「聖家族会」(このうち、「聖マリア・アンヌンチアータ会」は日本でも活動しています)。そして、パウロ家族の使命に共鳴するすべての人が会員となる「聖パウロ協力者会」。こうした創立の活動は、晩年に至るまでも続いていきました。しかし、アルベリオーネ神父自身は、これがすべて神に突き動かされておこなった、神のわざであることをはっきりと意識していました

 あの19世紀と20世紀を分ける決定的な夜(この夜の出来事については、本コーナー第1回「キリストとの神秘的な出会いを受け止めて」を参照してください)、徹夜の聖体礼拝の中で、青年アルベリオーネは聖体からの光と力を感じました。「聖なるホスチアから一条の特別な光が来た、すなわち『みな わたしのところに来なさい』とのイエスの招きを、今までより深く理解する恵みがくだった」(Abundantes divitiae gratiae suae〈以下ADと略記〉, 15)。そして、「比較的明確に自分が無に過ぎないことを自覚し、同時に、聖体のうちに『わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる』という言葉を聞き、ホスチアであるイエスのうちに光、糧、慰め、悪への勝利を得られるのだということを実感した」(AD, 16)。その中で、「自分が、主のために、そしてともに生きることになる新しい世紀の人びとのために、何かをおこなう準備をするように深く義務づけられているということを感じた」(AD, 15)。また、「新しい世紀の教会と人々に奉仕し、他の人々とともに組織の中ではたらくよう義務づけられていると感じた」(AD, 20)。キリストの力が青年アルベリオーネの中に入り込み、彼を駆り立てて、神の計画の実現へと突き動かしていく(アルベリオーネ神父はこれを「義務づけられている」と表現しています)さまがここに描かれています

 アルベリオーネ神父は、パウロ家族創立40周年(1954年)にあたり、パウロ家族について次のように語っています。「今、小さなパウロ家族のことを考えてみるとき、一条の水の流れにたとえることができるであろう。流れながら、それは、雨、氷河の溶解、種々の小さな水源によってふくらんでいく。このように集まった水は、後にそれぞれの水路へと分けられて、肥沃な平野のためのかんがい用水として、エネルギー、熱、光を造り出すための水として用いられていく」(AD, 5)。最初、小さかった水の流れはどんどん大きなものになっていきます。しかし、それは自分のためではなく、さまざまな面で全体を豊かにするためです

 しかも、アルベリオーネ神父は流れの成長が自分自身のわざではなく、神のわざであることを自覚しています。「彼(=アルベリオーネ)は、水が谷へと流れ集まっていくこの動きを引き起こしたのではなく、むしろこれをととのえた、いやほとんど『被った』のだ。後に、多くの人たちの益のためにさまざまな国々へ水を分けるという、神の望みをととのえたのと同じように。これらの水路が再び一つに集まり、神のうちにある永遠の幸いという海へと流れ込むのを待ち望みながら」(AD, 6)。すべては、神のはたらきです。そして、この神のはたらきがすべてへと行き渡り、すべては神へと集まっていきます。パウロ家族もまさに、このダイナミズムの中に置かれ、その務めへと駆り立てられているのです

 もちろん、それはパウロ家族にかぎったことではありません。わたしたち一人ひとりが駆り立てられています。すべてのキリスト者が、キリストに突き動かされて、福音を告げ知らせないではいられないはずなのです。「道・真理・いのちであるキリストが世の中を統べ治めるために!」(AD, 63)。