第11回:異邦人の使徒
【聖書参考個所】
ローマ1・1-7、3・21-31、15・14-32、一コリント9・1-23、
ガラテヤ1・13-17、2・1-10、11-14、3・21-29、5・2-6など
パウロは、キリストに突き動かされて、福音を宣べ伝えます。同時に、パウロの中で、パウロを超えて、キリストが福音を宣べ伝えます。パウロは、自分が「福音宣教者」、キリストを告げ知らせる「使徒」であると理解していますが、特に「異邦人のための使徒」(ローマ11・13)と感じています(1・5、15・16、ガラテヤ1・16、2・7-9)。しかし、パウロはどのような意味で「異邦人の使徒」なのでしょうか。
使徒言行録によれば、異邦人にはじめて福音を告げたのは、パウロではなく、ペトロです。ペトロが、霊に導かれてカイサリアに行き、コルネリウスとその親類・友人に福音を告げ、洗礼を授けるのです(使徒言行録10・1~11・18)。そして、「ステファノの事件をきっかけにして起こった迫害のために散らされた人々……の中にキプロス島やキレネから来た者がいて、アンティオキアへ行き、ギリシア語を話す人々にも語りかけ、主イエスについて福音を告げ知らせ」(11・19-20)ます。このため、エルサレムの「教会はバルナバをアンティオキアへ行くよう派遣し」ます(11・22)。この後、バルナバが「サウロを捜しにタルソスへ行き、見つけ出してアンティオキアに連れ帰」(11・25-26)り、パウロの活動が始まるのです。
同じく使徒言行録によれば、パウロは「異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたし(=キリスト)の名を伝えるために、わたしが選んだ器である」(9・15)と言われていて、異邦人にだけでなく、イスラエルの民にも福音を告げる者として描かれています(ただし、22・21では「わたし(=キリスト)があなた(=パウロ)を遠く異邦人のために遣わす」)。実際に、復活のキリストに出会ったパウロは、ダマスコに行き、「あちこちの会堂で……イエスのことを宣べ伝え」(9・20)ていますし、エルサレムに行ってからも、「ギリシア語を話すユダヤ人と語り」(9・29)ます。宣教旅行に出発してからも、会堂を拠点にして活動します(13・14)。ピシディアのアンティオキアで、ユダヤ人たちのねたみと反対を受けて、「わたしたちは異邦人の方に行く。主はわたしたちにこう命じておられるからです」(13・46)と宣言しますが、その後もパウロは、ユダヤ人と異邦人の両方に福音を告げていきます(14・1、17・1-2、10-11、17、18・4、19・8、28・17、23など、なお17・1-2では、「パウロはいつものように、ユダヤ人の集まっているところへ入って行き……」)。パウロ自身も、手紙の中で、「ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです」(一コリント9・20)と述べているので、福音宣教の対象からユダヤ人を除外したわけではないようです。むしろ、パウロは「すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです」(9・22)と言っています。
それにもかかわらず、パウロは自分が神から「異邦人の使徒」として選ばれ、召し出されていることを意識しています。パウロは、すべての人を救うために、すべての人に福音を告げ知らせますが、「異邦人の使徒」であることを、神が自分に与えてくださった「選び」、「召命」として受け止めるのです。「わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神が、御心のままに、御子をわたしに示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされ」(ガラテヤ1・15-16)ました。「割礼を受けた人々に対する使徒としての任務のためにペトロに働きかけた方は、異邦人に対する使徒としての任務のためにわたしにも働きかけられたのです」(2・8)。だから、「キリストの名がまだ知られていない所で福音を告げ知らせようと、わたし(=パウロ)は熱心に努め」(ローマ15・20)るのです。
パウロが福音を宣べ伝えた町や地域をすべて列挙することは不可能です。使徒言行録には、何度かにわたるパウロの宣教の旅が描かれていますが、パウロ自身の手紙を読むと、使徒言行録に描かれていることがすべてではないことがわかります。パウロは、ローマの教会に対して、「今は、もうこの地方に働く場所がなく」(ローマ15・23)と記しています。この地域で宣教がなされていない町はもうないといった状況を示唆する言葉です。同じ個所で、パウロは「イスパニア」(現在のスペイン)に行く計画をも記しています(15・22-29)。実際にイスパニアにまで行ったかどうかはわかりませんが、パウロが当時としては非常に広範な地域に福音を宣べ伝えたことは間違いありません。
しかし、パウロが「異邦人の使徒」と呼ばれるのは、それが神からの召し出しであったからだけでも、宣教した地域の広さによるだけでもなく、パウロがキリストの福音の真髄として理解したことを異邦人への宣教の中で貫きとおしたことによるとも言えるでしょう。パウロは、異邦人が異邦人のままでキリストによって救いにあずかるのだという教えを、曲げることはありませんでした。ユダヤ人たちの強固な反対にさらされたにもかかわらずです。異邦人が救われるのに、割礼を受けてユダヤ人となることが必要であれば、結局、異邦人のままでは救われないということになってしまいます。
異邦人が救われるには、割礼を受け、律法を守る必要があるのか。わたしたちには想像することも難しいのですが、これは初代教会における一大問題でした。使徒言行録によれば、それを解決するためにエルサレムで会議を開かなければならないほどでした(使徒言行録15・1-35)。ユダヤ人キリスト者は、当たり前のように、割礼を受けなければ救われないと考えていました。律法を与えてくださった神が、キリストを送り、復活させてくださったのなら、両者が矛盾することはありえず、むしろどちらも必要なものと考えていたのです。これに対して、神はペトロを用い、異邦人コルネリウスとその親類・知人の上に聖霊を注がれることによって、ご自身の答えを示してくださいました。ペトロは言います。「人の心をお見通しになる神は、わたしたちに与えてくださったように異邦人にも聖霊を与えて、彼らをも受け入れられたことを証明なさったのです。また、彼らの心を信仰によって清め、わたしたちと彼らとの間に何の差別をもなさいませんでした」(15・8-9)。逆に言えば、このような神の直接の介入なしには、ユダヤ人キリスト者は納得することができなかったということなのでしょう。
パウロもユダヤ人です。簡単にこの問題を乗り越えることができたとは思えません。異邦人への宣教をおこなうまでは、考えることすらなかったのかもしれません。しかし、異邦人へ福音を伝えていく中で、パウロはこの問題に向き合わざるをえなくなります。そして、現実の問題の中で、福音の意味を問い直し、答えを探っていったのです。福音に基づいてパウロがたどり着いた答えは明快です。人は、「ただイエス・キリストへの信仰によって義とされる」(ガラテヤ2・16)ということです。「わたしパウロはあなたがたに断言します。もし割礼を受けるなら、あなたがたにとってキリストは何の役にも立たない方になります」(5・2)。「律法によって義とされようとするなら、あなたがたはだれであろうと、キリストとは縁もゆかりもない者とされ、いただいた恵みも失います」(5・4)。だから、「キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではない」(5・6)のです。たとえ、律法がすばらしいものであろうと、神からの恵みであろうと、キリストへの信仰のほかに救いの条件があるとすれば、キリストの死と復活は効力のないものとなってしまうのです。
異邦人が割礼を受ける必要はなく、異邦人のままで、ただキリストへの信仰によって義とされる。ここにはじめて異邦人の救いが実現します。この福音の真髄を貫きとおしたパウロは、まさに「異邦人の使徒」なのです。
パウロのこうした福音宣教の姿勢を、パウロ家族の創立者アルベリオーネ神父は「普遍性」という概念で理解しています。
「聖パウロ:普遍性の聖人。賛嘆と信心は、特に『ローマの信徒への手紙』の研究と黙想から始まった。そのときから、〔彼の〕人となり、聖性、心、イエスとの親しさ、教義〔神学〕と倫理〔神学〕における彼の業績、教会の組織づくりの中で残した痕跡、すべての民に対する彼の熱意が黙想の主題となった。真に『使徒』と感じられた。すなわち、彼からあらゆる使徒とあらゆる使徒職を得ることができるような『使徒』として」(Abundantes divitiae gratiae suae, 以下AD, 64)。
創立者は、パウロ家族の使命の特徴がこのパウロ的普遍性であることを自覚しています。「すべて」、「あらゆる」、「全体」などと訳される言葉(イタリア語の「tutti」あるいは「tutto」)が、ひんぱんに用いられています。
「パウロ家族は、使徒職全体において、世界全体に大きく開かれている:勉学、使徒職、信心、はたらき、出版。あらゆるカテゴリーの人々のための出版。福音の光のもとに判断されるあらゆる問題と出来事。願望は、ミサの中でイエスのみ心が持っているもの。『イエス・キリストを知らせるため』(ヨハネ17・3参照)の唯一の使徒職において、あらゆる使徒職とあらゆる善いわざを照らし、支え、すべての民を心に抱くこと。あらゆる問題の中に教会の存在を感じさせること。すなわち、公的、私的なすべての必要性に対する適応と理解の精神、祭儀全体、法、正義と愛の共生」(AD, 65)。
「パウロ的精神による出版。これは、パウロが『キリストのうちに生きる』(二テモテ3・12参照)という本質的なことを示した後に、フィリピの信徒たちに付け加えた言葉の中に表現されている。『終わりに、兄弟たち、すべて真実なこと、すべて気高いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて名誉なことを、また、徳や称賛に値することがあれば、それを心に留めなさい。わたしから学んだこと、受けたこと、わたしについて聞いたこと、見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神はあなたがたと共におられます』(フィリピ4・7-9)」(AD, 70)。
「第一に、救いの教えを与えること。福音をもって、人間の思想と知識全体に分け入ること。宗教についてだけ語るのではなく、すべてについてキリスト教的に語ること」(AD, 87)。
創立者は、聖パウロ女子修道会のシスターに対する黙想で次のように指摘しています。
「修道会の精神は普遍的です。あなたがたは、一つの町、一つの国、一つの大陸に派遣されたのですか。神の言葉をもたらすために、世界全体に派遣されたのです」(Vademecum, 991)。
また、在俗的奉献生活の会のメンバーに対しても強調しています。
「第一に、わたしたちの特徴は普遍性です。
善となりうることはすべて、教会によって認可されたことはすべて、神に栄光を帰し、人々を救うためになることはすべて。人々を救うのであれば、どこに行くにせよ、どのようなはたらきであるにせよ、常にわたしたちの心の中にあります。この普遍性のために、道・真理・いのちであるイエス・キリストを見つめる必要があります。そこに福音全体があります。そして、福音を、聖パウロがわたしたちに説き、実践するものとして」(Vademecum, 998)。
こうしたことは、今では当たり前のことと受け止められるかもしれません。しかし、20世紀の前半、福音宣教のわざは厳密には司祭だけがおこなうことのできるものと考えられており、信徒、まして女性が宣教や司牧に携わることなど考えられませんでした。また、教区司祭の多くが自分の小教区だけを見つめていました。多くの手段はそれ自体として悪と考えられていました。
そのような中で、アルベリオーネ神父はキリストのうちに、あらゆる人々が福音宣教に参与し、あらゆる分野のあらゆる手段を用いて、あらゆる人々に、しかも一人ひとりの全体にキリスト全体を与えていくという視点を強調し、みずから実践しました。メディアを用いた福音宣教が口頭での宣教と同じ秘跡的価値を持つこと、女性や信徒が司祭職に参与しながら全面的に福音宣教をおこなっていくこと……。アルベリオーネ神父も、パウロと同じように、福音の光のもとに現実を深く見つめることによって、当時の教会では一般的ではなく、むしろ反発を受けたこれらのことを、確固として貫きとおしたのです。「普遍性」とは、福音に照らして現実を見つめ、現実の中で福音を見つめなおしていくことによって、徐々に研ぎ澄まされていった信仰の感性であり、ゆるぎない確信なのでしょう。
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