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第12回:使命をゆだねられた者として謙虚に、しかしゆるぎなく

【聖書参考個所】
一コリント3・5-9、4・1-2、9-13、9・1-18、15・9-11、
二コリント4・7-18、11・5-15、12・11-21、フィリピ2・1-18など
 
 
 パウロは、自分が使徒であることを確信していました。しかし、パウロは自分のことを、「月足らずで生まれたようなわたし」(一コリント15・8)、「使徒たちの中でもいちばん小さな者、使徒と呼ばれる値打ちのない者」(15・9)と呼びます。「神の教会を迫害したから」(同)です。
 たしかに、復活のキリストとの出会いはパウロのすべてを変えました。「わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、わたしの主キリストを知ることのあまりのすばらしさのゆえに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです」(フィリピ3・7-9)。パウロは、「敵であった」のですが、「御子の死によって神と和解させていただいた」ので、「和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです」(ローマ5・10)とまで宣言できるようになりました。

 だからと言って、キリストの「敵」であり、「徹底的に神の教会を迫害し、滅ぼそうとして」(ガラテヤ1・13、なおフィリピ3・6参照)いた事実が消えるわけではないことも、パウロは知っています。パウロは、過去の自分と正面から向き合っています。本心から自分が「使徒と呼ばれる値打ちのない者」であると考えていたのでしょう。

 しかし、パウロの使徒としての謙虚さは、過去の自分の過ちに対する負い目から来るものではありません。それは、キリストの思いを思いとし、キリストの生き方を自分の生き方とするところから生じているのです。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になりました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ」(フィリピ2・6-9)られました。パウロは、この「キリスト・イエスにもみられる」(2・5)生き方、「へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え」(2・3)る生き方を自分の生き方とし、兄弟たちにも勧めます。

 同時にパウロの謙虚さは、神のはたらきの自覚から生じるものであって、ほかの人との比較から生まれてくるものではありません。冒頭に引用した個所で、パウロは述べています。「わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです」(一コリント15・10)。「神の恵みによって今日のわたしがあるのです」(同)。

 「この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために」、パウロは自分がこの宝を納める「土の器」であると考えています(二コリント4・7)。「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。わたしたちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています、死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために」(4・8-11)。パウロは、そしてパウロだけでなくすべての使徒は、「神のために力を合わせて働く者」(一コリント3・9)、「キリストに仕える者、神の秘められた計画をゆだねられた管理者」(4・1)です。植える者、水を注ぐ者があっても、成長させてくださるのは神であり、キリストです。「大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です」(3・7)。そして、「管理者に要求されるのは〔神に〕忠実であることです」(4・2)。

 しかし、こうした謙虚さにもかかわらず、パウロは自分が使徒であることを否定する人々に対して、非常に激しく反論します。パウロは、自分が使徒であること、しかもほかの使徒たちに何ら引けをとらない使徒であることを強く主張するのです。「わたしは……使徒ではないか。他の人たちにとってわたしは使徒でないにしても、少なくともあなたがたにとっては使徒なのです」(一コリント9・1-2)。「他の人たちが、あなたがたに対するこの権利(=使徒としての権利)を持っているとすれば、わたしたちはなおさらそうではありませんか」(9・12)。「あの大使徒たちと比べて、わたしは少しも引けは取らないと思う。たとえ、話し振りは素人でも、知識はそうではない。そして、わたしたちはあらゆる点あらゆる面で、このことをあなたがたに示してきました。それとも、あなたがたを高めるため、自分を低くして神の福音を無報酬で告げ知らせたからといって、わたしは罪を犯したことになるでしょうか」(二コリント11・6-7)。

 パウロは、本当に自分が「使徒たちの中でもいちばん小さな者、使徒と呼ばれる値打ちのない者」(一コリント15・9)と考えているのでしょうか。それでは、なぜ使徒であることを否定されると、これほどまで激しく反論するのでしょうか。

 その理由は、パウロが神からこの務めを受けたことを確信していることにあるようです。この務めは、神の永遠の計画に基づくものであって、パウロ自身の望みを超えたものなのです。「わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神が、御心のままに、御子をわたしに示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされた」(ガラテヤ1・15-16)ので、「わたしが福音を告げ知らせても、それはわたしの誇りにはなりません。そうせずにはいられないことだからです。福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです。自分からそうしているなら、報酬を得るでしょう。しかし、強いられてするなら、それは、ゆだねられている務めなのです」(一コリント9・16-17)。

 パウロにとって、使徒であることへの攻撃は、神の計画に対する攻撃、福音に対する攻撃を意味していました。だから、自分が侮辱され、虐待され、迫害されても耐え忍び、祝福の言葉を返すパウロが(一コリント4・10-13参照)、使徒であることの否定に対しては断固として反論するのです。表面的には対立するように見えても、パウロの激しさの根底にあるのは、謙虚さの根底にあるものと同じです。使徒であること、使徒としてのはたらきが、パウロ自身に由来するものでなく、神のはたらきであるため、パウロは使徒であることに対して謙虚であると同時に、使徒であることを断固として貫くのです。

 ゆだねられた使命の前での謙虚さとゆるぎない確信。多くの聖人たちに見られる特徴です。福者アルベリオーネ神父も、パウロ家族の創立者として、まさにこれを生きていました。「〔パウロ家族の会員は〕すべて、使徒聖パウロだけを父、師、模範、創立者とみなさなければならない。事実、そうなのだから。〔パウロ家族は〕彼をとおして生まれ、彼から滋養を得て成長し、彼から霊/精神を受け取ったのである。そのあわれなやせっぽちについて言えば、彼(=アルベリオーネ神父)は、神のみ心のいくつかの部分を成し遂げたが、舞台から、そして記憶から消え去らねばならない。たとえ、より年配であるという理由で、主から受け取って、ほかの人々に与えねばならなかったのだとしても。このように、ミサが終わると、司祭は祭服を置き、神の前であるがままの姿にとどまるのである」(Abundantes divitiae gratiae suae, 2)。

 アルベリオーネ神父にとって、パウロ家族は、パウロをとおして神ご自身が生み出してくださった神のわざです。だから、自分は、舞台からも、記憶からも消え去るべき存在であると考えています。さまざまな証言から、アルベリオーネ神父がこの点を根本的な要素ととらえていたことがわかります。しかし、だからと言って、創立者は自分の務めが大したものではないと思っているわけではありません。それは、「神のみ心のいくつかの部分」であり、「主から受け取……らねばならなかった」(つまり、必ず成し遂げられなければならない神の計画であり、ゆだねられた使命)のであり、実際に、創立者はこれを「成し遂げ」たのです。

 パウロやアルベリオーネ神父の模範は、わたしたちが直面する2種類の誘惑について考えさせてくれます。一方で、神から与えられた使命であるにもかかわらず、まるでそれが自分のはたらき、自分が自由におこなってよいものであるかのように考え、そこから生み出される実りを自分の功績としてしまう誘惑があります。これに対して、わたしたちは、パウロとともに、「働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです」(一コリント15・10)、「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」(ガラテヤ2・20)という確信に基づく謙虚さを身につけるよう招かれています。

 しかし、逆に謙虚さを理由にして(つまり、自分の力を超えていると言って)、神からゆだねられた務めを拒絶したり、放棄したりしてしまう誘惑もあります。たしかに、教会の中のさまざまな奉仕職は、しばしば大きな負担、担い切れない重荷と感じられるかもしれません。しかし、それはすべて神から与えられる奉仕の務めです。わたしたちは、どんな困難の中にあっても、パウロとともに、これを神からゆだねられた務めとして受け入れ、生きていくように招かれているのです。